サンチャゴ大聖堂は今回やっと正面ファサードの修復が終わっていた。
昨夜の様子
パラドールでの朝食の部屋からの眺め
正面の中心にはもちろんヤコブ=サンチャゴの像↓
↓下の段の左右には弟子でヤコブの遺体をガリシアまで船で運んできた弟子のテオドロとアタナシウス
キリストの死後、ガリシアで布教にはげんでいたヤコブだったが、イスラエルに戻って殉教した。その首なし遺体を弟子二人がひそかに船に積んで布教した地へ運んだとされている。
遥か後の西暦811年、星のカタチの光に導かれた(コンポステラとは「星の丘」の意味)隠者がヤコブの遺体を発見した。
それがこの場所、まずは小さなお堂が建てられた。
アストゥリアス王(その当時はまだスペインという国の概念はない)アルフォンソ三世がロマネスクの聖堂を建てたが、西暦997年にイスラム教国が攻め入って壊されてしまった。
現在の聖堂はその後に西暦11世紀から13世紀までかかって建てられた三番目のもの。
聖堂前の広場が「オブラドイロ(ガリシア語で「職人たち」の意味、※諸説あり)広場」と呼ばれているのは、大聖堂建設のために職人たちがここで働いていたからだと今日のガイドさんのご説明。
↓広場の敷石が不規則なのは廃材をつかってとにかく整地したせいだそうな。ま、いろんな年代が混じり合っていることでしょうけれど。
大聖堂の正面玄関と塔は1750年からフランスの建築家がバロック様式に変えてしまったけれど、広場の北側にある旧王立病院の入口はロマネスク時代のまま↓
構図も無理なくきれいにはまっているからオリジナルに違いないだろう
↑彫も美しい
↓我々が泊まっていたパラドールの正面はルネサンス風
入り口左手にイサベル女王の紋章と言われたが、上に鷲が一羽乗っている。ヒメノ朝の女王としての紋章?
入り口右手の紋章はハプスブルグの双頭の鷲がついているから孫のカール一世のものだろう。
↓聖堂のテラスから広場を見晴らしたところ※2012年撮影、2019年4月現在は修復中で入れません
↑広場の聖堂向かい側に位置している建物は同じくフランス人建築家が18世紀後半に大司教の舘として建てなおしたもの。
大司教の紋章がつけられている↓
それ以前のこの場所には牢獄があったのだそうだ。
聖堂内部に入る前に正面入り口に向かって右にある博物館の見学からはじめた。
今朝のガイドのルチアさんはこの博物館の学芸員だったのだそうで、とても詳しい説明が聴けた。
※博物館内部は撮影禁止
今回はじめて知ったのは、「聖遺物の祭壇」に納められている百以上の聖遺物の中に★「ヨハネ・パウロ二世の血」までもが奉納されていたこと。かの法皇は1981年にサン・ピエトロ大聖堂前の広場で撃たれた事がある。その時拭き取られた血が誰かの手によって大事に保存されていて、法皇が列聖された2013年にこちらにもたらされたのだそうだ。
巨大な真新しい祭壇の左隅に血を吸った小さな布片があった。
また、★「聖ヤコブの歯」も、後世にイスラエルからもたらされて、同じ祭壇の右下部に納められていた。ヤコブの頭部は刑死したイスラエルにのこされていたということ。
大聖堂内部に遺体を葬ることは16世紀は禁止された。臭気がひどく衛生面が懸念されたからだという。
代わりにこの回廊中庭が建設された↓
↑現在でも宗教者の埋葬はこちらで続けられている。
↓中庭にあった巨大な石の器は何?
↑これはかつて聖堂の北入り口のすぐ外にあった噴水の水盤。
どろどろに汚れた巡礼たちは、この噴水で身体を洗ってから聖堂内部に入るのを許されたのだそうだ。
脱いだぼろぼろの服を焼く場所も別の場所にもうけられていた。
同じ中庭に貴族アルバ家(ゴヤと関連のあるALVAではなくALBA)の礼拝堂↓
「このファミリーは、馬に乗ったままこの自家の礼拝堂まで入る権利をスペインの王から賜ったのよ」
当時、王だけは乗馬のまま教会内部にも入れたのだが、特別に同じ名誉を拝領したということ。
もっとも、今も続く同家は一度もその権利を行使したことはないそうだが。
内部には立派に修復された祭壇があった↓
**
大聖堂内部はまだまだ修復中だった
ヤコブの像のところへ登る階段も足場がある。
巨大な香炉を振る「ボタフメイロ」の滑車はあるが↓
今はなかなか行われない状況だ。
ミサに参列するための椅子もまったくない状態である↓
※↑柵はボタフメイロの時に近づきすぎる信者が怪我をしないようにもうけられた。
それ以前は巨大な香炉に顏をヒットされる人もあったのだそうだ。
★こちらからボタフメイロの時の様子をごらんください
大聖堂の修復は、有名な「栄光の門」の周辺にも及んでいる。
かつては巡礼たちが触れていた門は2012年にはすでに触れなくなっていたが、今ではこの「マエストロ・マテオ」の像を見ることさえも別料金(予約制)になってしまっている。
地下にあるヤコブの墓だけは見ることができる↓
9世紀当時にはこの周辺には墓場が広がっていた。
キリスト教以前からの墓が大聖堂の地下には残されていて、そこに降りる階段入口が見えた↓
昨夜の様子
パラドールでの朝食の部屋からの眺め
正面の中心にはもちろんヤコブ=サンチャゴの像↓
↓下の段の左右には弟子でヤコブの遺体をガリシアまで船で運んできた弟子のテオドロとアタナシウス
キリストの死後、ガリシアで布教にはげんでいたヤコブだったが、イスラエルに戻って殉教した。その首なし遺体を弟子二人がひそかに船に積んで布教した地へ運んだとされている。
遥か後の西暦811年、星のカタチの光に導かれた(コンポステラとは「星の丘」の意味)隠者がヤコブの遺体を発見した。
それがこの場所、まずは小さなお堂が建てられた。
アストゥリアス王(その当時はまだスペインという国の概念はない)アルフォンソ三世がロマネスクの聖堂を建てたが、西暦997年にイスラム教国が攻め入って壊されてしまった。
現在の聖堂はその後に西暦11世紀から13世紀までかかって建てられた三番目のもの。
聖堂前の広場が「オブラドイロ(ガリシア語で「職人たち」の意味、※諸説あり)広場」と呼ばれているのは、大聖堂建設のために職人たちがここで働いていたからだと今日のガイドさんのご説明。
↓広場の敷石が不規則なのは廃材をつかってとにかく整地したせいだそうな。ま、いろんな年代が混じり合っていることでしょうけれど。
大聖堂の正面玄関と塔は1750年からフランスの建築家がバロック様式に変えてしまったけれど、広場の北側にある旧王立病院の入口はロマネスク時代のまま↓
構図も無理なくきれいにはまっているからオリジナルに違いないだろう
↑彫も美しい
↓我々が泊まっていたパラドールの正面はルネサンス風
入り口左手にイサベル女王の紋章と言われたが、上に鷲が一羽乗っている。ヒメノ朝の女王としての紋章?
入り口右手の紋章はハプスブルグの双頭の鷲がついているから孫のカール一世のものだろう。
↓聖堂のテラスから広場を見晴らしたところ※2012年撮影、2019年4月現在は修復中で入れません
↑広場の聖堂向かい側に位置している建物は同じくフランス人建築家が18世紀後半に大司教の舘として建てなおしたもの。
大司教の紋章がつけられている↓
それ以前のこの場所には牢獄があったのだそうだ。
聖堂内部に入る前に正面入り口に向かって右にある博物館の見学からはじめた。
今朝のガイドのルチアさんはこの博物館の学芸員だったのだそうで、とても詳しい説明が聴けた。
※博物館内部は撮影禁止
今回はじめて知ったのは、「聖遺物の祭壇」に納められている百以上の聖遺物の中に★「ヨハネ・パウロ二世の血」までもが奉納されていたこと。かの法皇は1981年にサン・ピエトロ大聖堂前の広場で撃たれた事がある。その時拭き取られた血が誰かの手によって大事に保存されていて、法皇が列聖された2013年にこちらにもたらされたのだそうだ。
巨大な真新しい祭壇の左隅に血を吸った小さな布片があった。
また、★「聖ヤコブの歯」も、後世にイスラエルからもたらされて、同じ祭壇の右下部に納められていた。ヤコブの頭部は刑死したイスラエルにのこされていたということ。
大聖堂内部に遺体を葬ることは16世紀は禁止された。臭気がひどく衛生面が懸念されたからだという。
代わりにこの回廊中庭が建設された↓
↑現在でも宗教者の埋葬はこちらで続けられている。
↓中庭にあった巨大な石の器は何?
↑これはかつて聖堂の北入り口のすぐ外にあった噴水の水盤。
どろどろに汚れた巡礼たちは、この噴水で身体を洗ってから聖堂内部に入るのを許されたのだそうだ。
脱いだぼろぼろの服を焼く場所も別の場所にもうけられていた。
同じ中庭に貴族アルバ家(ゴヤと関連のあるALVAではなくALBA)の礼拝堂↓
「このファミリーは、馬に乗ったままこの自家の礼拝堂まで入る権利をスペインの王から賜ったのよ」
当時、王だけは乗馬のまま教会内部にも入れたのだが、特別に同じ名誉を拝領したということ。
もっとも、今も続く同家は一度もその権利を行使したことはないそうだが。
内部には立派に修復された祭壇があった↓
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大聖堂内部はまだまだ修復中だった
ヤコブの像のところへ登る階段も足場がある。
巨大な香炉を振る「ボタフメイロ」の滑車はあるが↓
今はなかなか行われない状況だ。
ミサに参列するための椅子もまったくない状態である↓
※↑柵はボタフメイロの時に近づきすぎる信者が怪我をしないようにもうけられた。
それ以前は巨大な香炉に顏をヒットされる人もあったのだそうだ。
★こちらからボタフメイロの時の様子をごらんください
大聖堂の修復は、有名な「栄光の門」の周辺にも及んでいる。
かつては巡礼たちが触れていた門は2012年にはすでに触れなくなっていたが、今ではこの「マエストロ・マテオ」の像を見ることさえも別料金(予約制)になってしまっている。
地下にあるヤコブの墓だけは見ることができる↓
9世紀当時にはこの周辺には墓場が広がっていた。
キリスト教以前からの墓が大聖堂の地下には残されていて、そこに降りる階段入口が見えた↓