※内部の写真は載せておりません
天草下島の南部の小さな村、車道から路地へ入る
静かな平日の午後、店の中に談笑する年配の方々がちょこっと見えた。
路地の向こうに見えてきたゴシックの塔が教会にちがいない↓
視界が開けると、小さな村に不釣り合いなほど立派な教会がそびえていた↓
五島列島や平戸に多くの教会を建てた鉄川与助の名前がここでもでてきた
昨年から五島や平戸をまわりたくさんの教会を訪れていたので、ただ世界遺産候補の古い教会があるというだけではこの崎津へ来ようとはおもわなかった。
来訪のカギは、この教会が畳敷きのまま使われている教会だということ。
先月訪れた、京都・天橋立近くの宮津教会が偶然畳敷きだと知って興味をもったのだが、宮津教会はあいにく修復中で中は見られなかった。
※こちらに宮津教会外観の写真と細川ガラシャについてのお話 載せました
崎津教会はミサなどの行事が行われていなければ誰でも入ることができる。
堂内は明るい光が差し込んでいた。板の床に畳が敷き詰められてその上にパイプ椅子がならべられていた。
あとからきいたきいた話だが、信者の方々の年齢もあって椅子の方が楽なので数年前からパイプ椅子をならべたのだそうだ。
実際に使われているのだから、使う方々が使いやすいかたちであるのは当然である。
★教会は洋風で椅子が並んでいるのが当然のイメージがある。
だが、日本では大事な場所に入る時には靴を脱ぐ。寺や神社の内陣がそうであるように。
明治期に禁教が解かれた後、一般の信徒たちは祈る教会などなかった。それぞれの村で代表の家へ集まって祈るのが通常だった。
そこでは靴を脱いで畳で座るのがあたりまえ。やがて、お金を出し合って新しい祈りの場=教会をつくった時にも、靴を脱いで畳の上に座って祈る習慣が自然に受け継がれた建物になった。
多くの教会では後の改修や建て直しに際して「洋風」になって畳をなくしてしまい、昔の畳の教会はほとんどなくなってしまった。
この崎津教会にも前身の教会があった。現在の立派な教会が出来る前に、一般住宅のような教会があった。その模型がさっき訪れた「天草コレジオ館」に展示されていた↓
この建物があったのは、なんと、すぐ近くの神社の入口すぐ横だ。観光案内所の方に指さしてもらったのが、下の写真の鳥居をあがって左側↓
ここには修道院まであったのだそうだ。今は立て替えられたが教会の関係の建物である↓
禁教の時代、隠れ切支丹たちはこの神社の氏子として生き延びてきたのだった。
神社から崎津集落を見晴らす事ができる↓
立派な教会が作られる前そこには庄屋の邸宅があり、年に一度、切支丹ではない事を確認する「絵踏み」の儀式はそこで行われていたのだそうだ。
現在教会の祭壇がある場所を、意図的に「絵踏み」が行われていた場所にしてある。
世界遺産認定を目指す日本が、ユネスコに示した「歴史的な意義」のひとつになっている。
※クロアチアのスプリトにあるドミティアヌス皇帝の墓が、今は彼が迫害したキリスト教の聖人ドムニウスのための教会になっているのを思い出した
この場所を教会を建設することを強く希望したのはこの地のキリスト教復興に力を尽くしたハルブ神父。
彼の墓は前出の神社参道わきにある↓
日本の教会は西洋と違って堂内には墓をおこうとしない。これも畳文化の影響かもしれない。
祈りの場に墓を置かないという基本方針は、イスラム教のモスクのようだ。
モスクも靴を脱いで入り、床に頭をつけたりするから、そこに墓をおきたくはなかったのだろう。
***
穏やかな崎津の入江を見ながら、天草下島の西海岸を北上する
天草下島の南部の小さな村、車道から路地へ入る
静かな平日の午後、店の中に談笑する年配の方々がちょこっと見えた。
路地の向こうに見えてきたゴシックの塔が教会にちがいない↓
視界が開けると、小さな村に不釣り合いなほど立派な教会がそびえていた↓
五島列島や平戸に多くの教会を建てた鉄川与助の名前がここでもでてきた
昨年から五島や平戸をまわりたくさんの教会を訪れていたので、ただ世界遺産候補の古い教会があるというだけではこの崎津へ来ようとはおもわなかった。
来訪のカギは、この教会が畳敷きのまま使われている教会だということ。
先月訪れた、京都・天橋立近くの宮津教会が偶然畳敷きだと知って興味をもったのだが、宮津教会はあいにく修復中で中は見られなかった。
※こちらに宮津教会外観の写真と細川ガラシャについてのお話 載せました
崎津教会はミサなどの行事が行われていなければ誰でも入ることができる。
堂内は明るい光が差し込んでいた。板の床に畳が敷き詰められてその上にパイプ椅子がならべられていた。
あとからきいたきいた話だが、信者の方々の年齢もあって椅子の方が楽なので数年前からパイプ椅子をならべたのだそうだ。
実際に使われているのだから、使う方々が使いやすいかたちであるのは当然である。
★教会は洋風で椅子が並んでいるのが当然のイメージがある。
だが、日本では大事な場所に入る時には靴を脱ぐ。寺や神社の内陣がそうであるように。
明治期に禁教が解かれた後、一般の信徒たちは祈る教会などなかった。それぞれの村で代表の家へ集まって祈るのが通常だった。
そこでは靴を脱いで畳で座るのがあたりまえ。やがて、お金を出し合って新しい祈りの場=教会をつくった時にも、靴を脱いで畳の上に座って祈る習慣が自然に受け継がれた建物になった。
多くの教会では後の改修や建て直しに際して「洋風」になって畳をなくしてしまい、昔の畳の教会はほとんどなくなってしまった。
この崎津教会にも前身の教会があった。現在の立派な教会が出来る前に、一般住宅のような教会があった。その模型がさっき訪れた「天草コレジオ館」に展示されていた↓
この建物があったのは、なんと、すぐ近くの神社の入口すぐ横だ。観光案内所の方に指さしてもらったのが、下の写真の鳥居をあがって左側↓
ここには修道院まであったのだそうだ。今は立て替えられたが教会の関係の建物である↓
禁教の時代、隠れ切支丹たちはこの神社の氏子として生き延びてきたのだった。
神社から崎津集落を見晴らす事ができる↓
立派な教会が作られる前そこには庄屋の邸宅があり、年に一度、切支丹ではない事を確認する「絵踏み」の儀式はそこで行われていたのだそうだ。
現在教会の祭壇がある場所を、意図的に「絵踏み」が行われていた場所にしてある。
世界遺産認定を目指す日本が、ユネスコに示した「歴史的な意義」のひとつになっている。
※クロアチアのスプリトにあるドミティアヌス皇帝の墓が、今は彼が迫害したキリスト教の聖人ドムニウスのための教会になっているのを思い出した
この場所を教会を建設することを強く希望したのはこの地のキリスト教復興に力を尽くしたハルブ神父。
彼の墓は前出の神社参道わきにある↓
日本の教会は西洋と違って堂内には墓をおこうとしない。これも畳文化の影響かもしれない。
祈りの場に墓を置かないという基本方針は、イスラム教のモスクのようだ。
モスクも靴を脱いで入り、床に頭をつけたりするから、そこに墓をおきたくはなかったのだろう。
***
穏やかな崎津の入江を見ながら、天草下島の西海岸を北上する