旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

11月初夏のオークランド~マオリ戦士の肖像

2024-01-03 07:26:48 | ニュージーランド
咲き誇るバラの背景に南洋杉。NZ南島のダニーデンからやってくると、北海道から九州に移動したぐらいの差を感じる。

ここパーネル・ローズ・ガーデン(=Dove-Myer Robinson Park)にはオークランドでいちばん古いマヌカの木、いちばん大きなポフツカワの木があるのだそうだ。

同じNZでも北島だけをめぐる旅を企画してみたい。
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プケカワ=オークランド・ドメインは1843年に整備された、わかりやすく言うなら「市民公園」。

ここも火口丘でマオリ族の砦があった場所。今はギリシャ神話のような「オークランド博物館」がある。1929年に完成し↓1950年代に(これらの写真では見えない)南側の半球部分が増築された。

↑「南半球で最も美しいギリシャ・ローマ建築」という評もあるが、マオリの人々の目からはどのように映っただろう。
↑オークランド博物館は「オークランド・ウォー・メモリアル」でもある↓

通常の戦争記念碑ならローリエの冠(栄光を著す)あたりが描かれていそうなところに、代わりに↑大きなシダ(NZのシンボル)の葉が刻まれてている。となりにマオリ族の謹言「as one fern frond dies,one is born to take it place(ひとつのシダが死ねば、その代わりに一枚が生まれる)」が刻まれていた。

↑最上階にはNZがこれまでかかわってきた戦争で命をおとしてきた人々の名前を刻んだ回廊がある↓

最後の壁は空白になっており

「これらのパネルはけっしてうめられてはならない」↑

NZが宗主国イギリスのために大きな犠牲をはらった第一次大戦についての解説は詳しい↓国威発揚のためのこのポスター↓一部意訳してみる

↑★イギリスはなぜ戦うのか
・名誉を守るため
ドイツは条約を破りベルギーを侵略した。ベルギーが求める助けを拒めば我々は名誉を失う
・ヨーロッパの自由を守るため
ドイツが勝てば、自由な言論・公平な裁定・公正な運営は百年失われる。
ベルギー、フランス、そしてイギリス、ロシアも侵略しようとしている。
妻子のために立ち上がる時だ。
さもなくば、ドイツの軍靴に蹂躙されることになる。

1907年に自治領にはなっていたが、当時のNZは英国の一部。
百万人にも満たなかったNZから十万人の兵士を派遣した。

第二次世界大戦では、NZはほとんど無傷だった。
↓イギリスを襲ったドイツのV1ロケットが展示されている↓

最も近い敵国だった日本との交戦はあった。

↑ブーゲンビル島(現パプアニューギニア)でNZ軍が入手したゼロ戦↑
この飛行機を最後に操縦したシバヤマ・セキゼン准将についての記述もあった。
1943年9月にラバウル基地(ニューブリテン島=ブーゲンビルの西隣り)に配属され通算百五十回に及ぶ空戦を生き残った。
カミカゼ特攻を命じられたこのゼロ戦の整備をできるだけ遅らせて、終戦をむかえることができた。
※現地案内版より要約

日本の降伏についての展示もあったが、日本からやってきたある国会議員が展示に不満を漏らすと、玉音放送についての展示はなくなったのだそうだ※ガイドさんより伝聞

世界大戦の展示よりも、
「マオリ戦争」についての詳しい解説に驚かされた

1840年のワイタンギ条約のあと、イギリスに土地を売り渡す部族と反対する部族との内紛がはじまり、イギリスが「助ける」かたちで参戦し、北島各地で籠城するマオリの各部族を「掃討」していった。

↑復元してあったのはルアペカペカの砦↑1845年12月から翌年1月にかけて、600人以上のマオリ族が籠城した。
「蝙蝠の巣」と呼ばれ、地下トンネルを擁する砦はイギリス軍の砲撃にも簡単には陥落しなかった。
このマオリの地下トンネルの知識は第一次大戦ガリポリ戦の塹壕に役立ったという記述もあった。
マオリとイギリスの紛争は19世紀後半をつうじて主に北島の各所で起こり続けた。

マオリ文化のルーツを伝える展示も充実している。

伝説の「ハワイキ」と呼ばれる島から海をわたってきたのが800年ほど前だったとされる。
チリのイースター島までを含むポリネシア系の文化は海でつながっている。

村の建物を移築している↑集会場を兼ねた大事な場所「マラエ」↓

広々とした内部も精緻な木彫でおおわれている。

↑目の部分は光る貝
全体のデザインにシダ植物の形状が感じられる。
渦巻き模様はシダの新芽KORU。

↑こちらは高床式の穀物倉庫↓

描かれた男女の顔は↓

入れ墨装飾

「1863年ランギリリの戦いでイギリス軍を撃退した後、話し合い要請のつもりで砦に旗を揚げるとイギリス軍はそれを降伏のサインだと認識した。話し合いの席で183人のマオリ戦士が捕縛された」※肖像の解説文より

「タウポ地域の族長であったパエラタは、いかにして砦を二日間守り通したのかを語った」※肖像の解説文より
↑彼が手に持っているのはマオリの武器↓

木彫にも表されている↑
↑これら族長たちの肖像が描かれたのは「マオリ戦争」の四半世紀後。
すべてがイギリスによって奪われた後、どんな思いでこの肖像のモデルになっていたのだろう。

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