ひるがえっているのはフランス国旗ではない。

「希望の星」が青い海に輝いている。マリアということばはもともと「Stella Maris(海の星)」という言葉からきている。かつてフランスから大西洋を渡ってきた人々(アカディア)の想いが込められている。
**
きのうの大風、夜の雷雨はおさまった。
ホテル前のポーチに出ると秋を感じた↓

シャーロットタウンの小さなダウンタウンを出る。
1911年に町はずれの監獄だった建物が、今はピザ屋だ↓

この時期の畑には干し草を巻き込んだロールがたくさんころがっている。
それを使ってハロウィンを楽しんでいるフィールド↓



日本なら「登らないでください」とかくところだが、ここでは「自己責任で遊んでください!」↓


いろんなカタチのかぼちゃを飾りとして売っている↓


***
アカディア博物館のあるMiscouche(※どう発音すべきなのだろう、ミカッチ?ミスコウシュ?先住ミックマック族のことばからきている地名)は、プリンス・エドワード島第二の都市サマーサイドの西十キロにある。人口は千人ほどで、その15%程度はフランス語を話すと自治体の案内にあった。
建物の前には冒頭の旗をデザインしたベンチ↓

入るとすぐに旗が掲げてあった↓

この旗が制定されたのは1884年。アカディアの人々の合同会議がここで開かれて決定された↓その時の様子が大きな絵になっている↓

ケベックに入植したフランス人とはまた別のルーツを持つアカディアの人々。
限られた家族からはじまったので、今でも同じ姓がとても多い。
はじめて電話帳がつくられた時には、同姓同名が多すぎてニックネームで表記されていたのだそうだ。
この博物館がはじまった当時の副館長が、実は今回のドライバーとしてきてくださったピエールさんのお父様↓「この人です(^.^)」と指差す彼

サービス精神旺盛で我々のためにアカディアのいろんな話をしてくれた。時にはアカディア博物館のピアノで子供のころに覚えたメロディを弾いてくれた↓

↓自分自身の子供のころの写真も展示されている↓

17世紀末から入植してきたひとびとが1735年にどこにどのぐらい住んでいたかの地図↓
↓この時期、島の名前はまだ「イル・サン・ジャン(聖ヨハネ)」とフランス語で呼ばれていた↓

↑英国が占領した1758年に英語で「セント・ジョン・アイランド」となり、
1798年になって当時の英国王ジョージ三世の王子であったケント公エドワードにちなんで現在の名前となった。
支配者が変わっても住む人々の言語も暮らしもそう簡単には変わらない。
当時住んだフランス系の人の墓石も展示されている。

1755年、となりの現ノヴァ・スコシア州ではフランス系住民の強制排除がおこなわれた↓
↓港に船が用意され、ある者はフランスに返され、ある者はアメリカ南部のフランス領ルイジアナに追放される。
↓その時の様子を再現した絵

となりのサン・ジャン島=現プリンス・エドワード島に逃げた人も少なくなかった。
18世紀に苦難の歴史を歩んだフランス系の人々の子孫がアカディアなのである。

「希望の星」が青い海に輝いている。マリアということばはもともと「Stella Maris(海の星)」という言葉からきている。かつてフランスから大西洋を渡ってきた人々(アカディア)の想いが込められている。
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きのうの大風、夜の雷雨はおさまった。
ホテル前のポーチに出ると秋を感じた↓

シャーロットタウンの小さなダウンタウンを出る。
1911年に町はずれの監獄だった建物が、今はピザ屋だ↓

この時期の畑には干し草を巻き込んだロールがたくさんころがっている。
それを使ってハロウィンを楽しんでいるフィールド↓



日本なら「登らないでください」とかくところだが、ここでは「自己責任で遊んでください!」↓


いろんなカタチのかぼちゃを飾りとして売っている↓


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アカディア博物館のあるMiscouche(※どう発音すべきなのだろう、ミカッチ?ミスコウシュ?先住ミックマック族のことばからきている地名)は、プリンス・エドワード島第二の都市サマーサイドの西十キロにある。人口は千人ほどで、その15%程度はフランス語を話すと自治体の案内にあった。
建物の前には冒頭の旗をデザインしたベンチ↓

入るとすぐに旗が掲げてあった↓

この旗が制定されたのは1884年。アカディアの人々の合同会議がここで開かれて決定された↓その時の様子が大きな絵になっている↓

ケベックに入植したフランス人とはまた別のルーツを持つアカディアの人々。
限られた家族からはじまったので、今でも同じ姓がとても多い。
はじめて電話帳がつくられた時には、同姓同名が多すぎてニックネームで表記されていたのだそうだ。
この博物館がはじまった当時の副館長が、実は今回のドライバーとしてきてくださったピエールさんのお父様↓「この人です(^.^)」と指差す彼

サービス精神旺盛で我々のためにアカディアのいろんな話をしてくれた。時にはアカディア博物館のピアノで子供のころに覚えたメロディを弾いてくれた↓

↓自分自身の子供のころの写真も展示されている↓

17世紀末から入植してきたひとびとが1735年にどこにどのぐらい住んでいたかの地図↓
↓この時期、島の名前はまだ「イル・サン・ジャン(聖ヨハネ)」とフランス語で呼ばれていた↓

↑英国が占領した1758年に英語で「セント・ジョン・アイランド」となり、
1798年になって当時の英国王ジョージ三世の王子であったケント公エドワードにちなんで現在の名前となった。
支配者が変わっても住む人々の言語も暮らしもそう簡単には変わらない。
当時住んだフランス系の人の墓石も展示されている。

1755年、となりの現ノヴァ・スコシア州ではフランス系住民の強制排除がおこなわれた↓
↓港に船が用意され、ある者はフランスに返され、ある者はアメリカ南部のフランス領ルイジアナに追放される。
↓その時の様子を再現した絵

となりのサン・ジャン島=現プリンス・エドワード島に逃げた人も少なくなかった。
18世紀に苦難の歴史を歩んだフランス系の人々の子孫がアカディアなのである。