竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

三本の大きな灯り

2009-07-31 04:53:43 | 竹工芸
                              
 
写真は灯りを三つ天井からぶら下げたもの。
掛川市の山中のログハウスの、
レストハウスの照明に使われました。
 
この取り付けには脚立にあがって取り付けました。
その時、脚立から落ちてしまいました。
灯りじゃなく私が。
背中を打ちましたが、幸い怪我はなし。
 
私の人生の中で落ちたことが、受験以外で他に二回あります。
一度はこの5月、屋根にペンキを塗っているとき。
ペンキの容器が傾いてペンキがこぼれ、
足がその上にのってすべって、屋根から落ちてしまいました。
このときも幸い怪我はなし。
 
三度目は、八ヶ岳の赤岳山頂で転落したのです。!
 
ちょっと言葉不足、赤岳山頂小屋の、中二階に上がる階段から、でした。
このときも怪我はなし。
 
そそっかしい人間ですからよくこんな失敗をします。
今まで無事で生きてこれたことに感謝、です。
 

ボルネオ、ペナン族の籠

2009-07-30 03:52:13 | 竹工芸
                                                      
ペナン族の籠、ブライアン・センテンス著「世界のかご文化図鑑」東洋書林、より
 
これはボルネオ、サラワク州の最後の狩猟採集民と言われる
ペナン族の籐編みの背負い籠です。
この籠を背負って移動する、と著者は書いています。
 
きれいできゃしゃな籠、どう見てもおしゃれの籠にしか見えません。
現実に、移動生活の中で生活に必要なものを入れて運ぶには、
小さくて、役に立つとも思えません。
でも、これはおみやげ物用に作られたものではないですね。
実に丁寧で、手馴れた作りのかごです。
 
この種のペナン族特有の背負い籠は、商品として以前からかなり出回っています。
私も昔友人から頼まれて修理したことがあります。
その籠は口作りなどは同じで、編み目は菱四つ目の細かいものでした。
友人は大阪の万博で購入したようでした。
 
私達は狩猟採集民というと、すぐ自給自足を想像します。
かなりの部分そうでしょう。
でも全てのものを自分達だけでまかなうことは不可能です。
周囲の部族との物々交換もかなり行われていたことでしょう。
 
この背負いかごはそういう交換用の意味もあったのではないか。
今のところ私の想像の域を出ませんが。
 
特に左の籠はこの本の著者が、[くねった蛇のパターン」とよんでいるもので、
ペナン族独特の編み方のようです。
同じパターンの籐の敷物の写真もありました。
                  
 
今サラワク州の奥地にはエコツーリズムで行くことができます。
似たようなかご編みの技術を持つ、定住民イバン族の村に滞在できるようです。
 
でもペナン族は・・・・定住したら変わってしまいます。
誰かがどこかで書いていた「静かなまなざし」に出会うことはないでしょう。

菱四つ目の灯り

2009-07-29 03:28:09 | 竹工芸


東平安名崎の海

毎日よく雨が降りますね。
昨日から南アルプス南部の千枚岳、荒川岳、赤石岳を縦走するつもりでしたが、
天気予報が悪すぎるので、先週のうちに諦めました。
 
掛川から東京に戻るときに、
大井川をさかのぼって車でちょっと遠回りするだけ、
費用も山小屋2泊の代金しかかからないので、
私にはお気に入りのコースです。
来月、天気予報とにらめっこして考えます。
 
大神島の話に進む前に、2,3日竹細工の話に戻ります。
 
宮古島への旅行のことを書き、竹細工をやっていると、
ふと、自分は滅びの一族なのかと思ってしまいます。
この文明のなかで、竹細工が生き残る道はどんどん細くなってゆく。
 
宮古島は今や観光の島です。
琉球王朝の重税による昔の大変な暮らしはなくなりました。
でも昔からの宗教のしきたりもいまや風前の灯です。
リゾート地を目指すしか島が生き残る道はないでしょうから。
 
あまり大げさに考えるのはやめましょう。
どう考えても私自身の終わりも近づいているのですから。
宮古島の海は豊かです。
 
山や海の自然の美しさや豊かさに触れることが、
自分の滅びを納得させ、心を安らかにさせる元かも知れません。
 
これは菱四つ目編みの灯り。
 
竹の灯りに紙をはらないと、編み目が強調されます。
電球がまぶしくもなるので、小さな編み目のものに向いています。
 
へぎ板を四つ目に組んで、それを斜めに使うので、目が菱形になります。
なぜ斜めに使うかといえば、それで立体を作るから。
底が四角い形になります。
籐やクラフトテープで編んだことがある人なら分かりますね

宮古島100キロマラソン、その三 伊良部島 

2009-07-28 05:13:18 | 旅行

翌日早朝ホテルを出て10キロほど試走してみる。
風が強い、え?こんな風の中を100キロ走るの?ちょっと不安になる。

朝食後ホテルで自転車を借りて、近くの砂山ビーチに行く。
観光地の一つで変わった岩がある。
土産物屋の近くで若い夫婦が貝細工を売っていた。手製のもののようだ。
二人ともこの島が気に入って本土から移住したという。
 
ただ昨年秋以来の不況で、
みんな航空運賃が安くなった台湾や韓国に行くので、
宮古島の観光客が激減している、と言う。
携帯用の小さなストラップを買う。
 

午後は平良港からフェリーで近くの伊良部島に行く。
現在島に渡る橋を建設中。
夏になれば島にあるビーチ目指して若者達で賑わうのだが、
シーズンオフの今は客も少ない。
 
船の着いた佐良浜港に近い海岸の、
断崖を下ったところにある昔の井戸を見に行った。
サバ沖井戸(サバウッガー)という。

 
昭和41年簡易水道が設置されるまで、
佐良浜の女性達は日に3~4回、
120段近い石段を頭に桶を乗せて上り下りしたという。
 
岩手県にいた私の幼い頃も、毎朝母が共同井戸まで水を汲みに行っていた。
それも釣瓶井戸、釣瓶を井戸に落とす時のボチャンという音が、
今も耳に残っている。
 
島には平地が少なく、急斜面に家が並んでいる。
車が入れない道が多い。あちこち細い道を歩き回る。
 
島で驚いたのは墓地の立派さだ。
なんとなく立派さを競い合っている感じがする。
家々も鉄筋コンクリート二階建てがほとんど、神社も立派である。
神社は御嶽(うたき)と言って小さな祠だったはずだが。

 
ここは観光で潤う島、昔からの習慣がどんどん変わって行っているようだ。
 
夜はクーポン券を使って、中華料理を食べる。

宮古島100キロマラソン、その二 マムヤの墓

2009-07-27 03:47:32 | マラソン

東平安名崎灯台上から北を望む
 
羽田から宮古島空港まで、那覇での乗換えを含めて約4時間の旅だ。
宮古島空港について驚いた。ホテルのある中心都市平良市まで、
バスがないのだ。歩いて行ける距離ではない。
仕方がない。タクシーでホテルまで行く。
 
ホテルは平良市の海沿いにあり、ビジネスホテルの感じた。
バストイレ、朝食つき。
ホテルで観光案内の冊子をもらい、早速夕食をとりに町に出る。
民謡酒場が何軒かある。宮古島民謡を聴いてみたい。
酒はのめないが、チュラチュラという酒場に入る。
 
沖縄服を着た若い女の子達が小さな舞台で三線を弾きながら歌う。
1時間ほどのショーなのだ。
客は私のほかに二、三組、ちょっと寂しい。
知っている歌もあれば知らない歌もあり、誘われて一緒に歌う。
最後にカチャーシーとよばれる手踊りをならって、立ち上がって一緒におどる。
 
ショーが終わると地元の客の中年の男女が二人舞台に立った。
男は三線を弾き、女は歌う。
この女性はとても哀調がある歌を歌い、ショーの娘達よりはるかにうまい。
とくに「マムヤのあやぐ」という歌が素敵だった。
あやぐとは宮古島の言葉で歌を意味する。
 
かって宮古島をはじめとする先島諸島には、
人頭税とよばれる重税が琉球王朝により課せられていた。
子供以外の全ての男女に課せられた重税で、
生き延びるのがやっとだったという。

 
南の島、ユートピアというイメージがあるが、
かっては遠く離れた大きな島の国家によって、
搾取され苦しめられた歴史がある。
その琉球王朝も薩摩藩によって搾取されていた。
今も沖縄の平均収入が本土の7割、宮古島は沖縄の7割だという。
 
王朝から派遣された役人の妾になれば税を免ぜられたので、
妾になる女性も多く、
宮古島や八重山の民謡には、捨てられた悲恋を歌ったものや、
妾になれた女性を妬んでからかう歌が多いという。
 
マムヤもそんな女性で、男に去られて自殺したという。
マラソンコースの東平安名崎には、マムヤの墓がある。 


   
                                            
     続く

宮古島100キロマラソン、その一 なぜ宮古島?

2009-07-26 03:58:10 | マラソン
 
 ホテルのそばの漁港

今年1月、初めて100キロマラソンに挑戦した。
1月11日宮古島100キロワイドーマラソンだ。
この歳になってそんなことを考えたきっかけは、
昨年秋玉川上水を走っているときに知り合った女性の話を聞いたからだ。
彼女は私より練習量が少ないが、四万十100キロマラソンに毎年参加して、完走している。
 
私は去年六月から一念発起、毎月300キロを走ることにしている。
マラソンを始めた17年前の3時間台のタイムに戻りたいから。
その効果があって昨年11月のつくばマラソンでは3時間50分、
それなら100キロマラソンの完走も夢ではないかもしれない。
  
  街路の木、ポインセチアみたいですね。
 
当時まだデイサービスに勤めていたが、
静岡に行くために毎月一週間まとめて休みを取っている。
それを利用すれば参加できる。
 
なんでそんな遠くの宮古島マラソンを選んだか。
 
一昨年、当時長男が住んでいたマレーシアに家内と一緒に出かけて、
長男の案内でリゾート地のパンコール島に行く途中、
漁村に立ち寄った。そこは杭上集落で中国系の村だった。
そこの売店で売っていたのが魚の干物やするめだった。
日本にあるのとほとんど同じで、はるかに種類が多い。
そのとき同じ干物文化が日本まで繋がっていると感じた。
 
以来東南アジアについての本をいくつか読んできた。
そして宮古島は東南アジアから日本にいたるルート上にある。
 
宮古島に行ってみたい、にわかにそんな気持ちが沸いてきたのである。
 
  
  平良(ひらら)市近くの海、砂山ビーチ

マラソンに参加するツアーがある。
二泊三日や三泊四日、どちらも高い。
そのはずだ、日曜日に開催されるマラソンに出るための飛行機代が、
平日よりかなり高くなるから。
飛行機は客が多いとき程高くなる。
人の足元を見る商売だが、文句を言っても始まらない。
 
そこで往復航空運賃が一番安い木曜スタート、帰りは翌週火曜日になる。
これだと往復航空券にホテルが一泊ついて3万円以下になる。
おまけに観光クーポン券がついており、
特定のレストランで2回、券を使って夕食を食べた。
 
ホテル以外の宿は「フェーヌカジ」という若者向けの宿で、個室一泊2500円、
バスなし、トイレ、シャワーは共用。
 
5泊6日の旅、マラソン以外の余分な時間こそ
宮古島を知るための貴重な時間だ。
 
                               続く

三本灯り

2009-07-25 04:11:43 | 竹工芸

                               

この灯りは、二段灯りの一段だけのもの。

隣の籠は麻の葉手提げかご。古典の案内状の写真です。
個展は掛川に移ってから今まで東京、静岡県を中心に
数多くやってきました。
 
7,8年ほど前から個展で売るのは難しくなっています。
現在手仕事をやっている人たちは、多くの人が苦労しています。
 
時代の流れでしょうか。
子育ての真っ最中の時期に、割合によく売れたのが幸いでした。
今後は・・・・いっそう大変ですね。

マラソン人口急増 、エントリー締め切り

2009-07-24 05:13:55 | マラソン

 
宮古島100キロマラソンコース上の東平安名崎近くの海岸

東京マラソンが始まってから、首都圏のマラソン人口が急増した気がします。
それは早朝ジョギングをする人が多くなったことからも、感じていました。
東京マラソンの倍率は第一回は3倍、第二回は5倍、今年の第三回は7.5倍
今年は27万人の応募者ですよ。すごい!
 
例年11月初めに開催されるつくばマラソンに応募しました。
応募締め切りは9月ですから今月応募したのです。
でも定員オーバーですでに締め切り、湘南マラソンはもっと前に定員オーバーです。
 
仕方がないので第一回富士山静岡空港開設記念マラソンに応募しました。 
こちらは間に合いました。
平坦地を走るのと、制限時間が7時間、おまけに静岡の家から車でいけるので、
私にはぴったりでした。
 
3月の荒川市民マラソンも締め切りが早くなっています。
東京マラソンで抽選に外れた人たちが走るので、
のんびり構えてはいられません。
 
マラソンはあまりお金がかからないし、
普段練習しないと完走が難しいので、
無理さえしなければ、健康にもとってもいいスポーツです。
若い女性のランナーが急増しているのも、うれしいことです。
 
走るのは体力づくりの基本ですから、
いつも走っていれば山登りも楽になります。
先日のNHKテレビで、歩くスピードのランニングでも、
運動効果は歩くよりも高い、と言っていました。
 
将来もゆっくり走ればいつまでも走っていられるんですね。
無理せずがんばって走りましょう。

石見銀山で竹細工を習う、 その六

2009-07-23 02:27:40 | 竹工芸
                     
 
当時家内も紙塑人形を作り始めていました。
夫婦そろって土地の人のお世話になりながら、
生涯続けることになる仕事を見つけたのですから、
銀山で出会った人々には本当に感謝しています。
 
それならどうして石見銀山から静岡県掛川市に移転したか、
それは冬があまりにも厳しかったから。
 
前に書いたとおり、お寺は北向きでした。
島根の冬はそれでなくても曇りか雪、太陽を見ることが少ないのです。
冬には石段に雪が積もりますから、
庭から石段、公道までの道の雪かきが欠かせません。
 
それに東京に母が一人で住んでいるので、
お盆やお正月に帰郷するのに時間がかかりすぎる。
 
当時取っていた新聞に、掛川市の市長さんが生涯学習都市を宣言し、
過疎地にも詳しい人という記事が載っていました。
静岡なら冬は好天続きのはずです。
そこで市長さんに、移住したいが空いた家があるかどうか、葉書で訊ねました。
すると空き家はあるから、一度来て見ないかと言う懇切な返事をいただきました。
 
そんな次第で掛川に移りました。
移ってまもなく浜松の画廊から声がかかって、個展を開きました。
 
本当に未熟で恥ずかしい状態で、今思い出しても赤面してしまいます。
でもその個展で多くの知り合いができ、
仕事を頑張ってゆくきっかけになりました。
 
銀山には以後30年訪れたことがありません。
是非また行ってみたいと思っています。

ドラム缶風呂、カッコよさとは大違い。

2009-07-22 04:21:47 | 田舎暮らし
                 
 
早朝4時半に家を出、一般道路を通って掛川に来ました。
朝早く出れば、高速だと4時間、下だと6時間、
あまり違わないのでめったに高速は利用しません。
 
銀山から静岡県掛川市のの山村に移って30年になります。
その後8年間家族と一緒に住んで、
家族が東京小平市の実家に移ってから、
22年間、私一人が毎月小平と掛川を往復して暮らしています。
 
家の周りは草が伸びているので、刈払い機で草刈り。
近くの日帰り温泉が休みなので、ドラム缶風呂を沸かします。
温泉には3、4日に一度、後はドラム缶風呂にしています。
 
ここは薪がただ、間伐材や製材のくずがあるし、
竹細工のくずもある。余った竹は短くして燃料になる。
水も山から引いているので無料、
とは言えお金がかからない分、全て自分の労力が頼りなので、
実はなかなか大変なのです。
 
銀山の家の家賃は月3000円でした。
ここでの家賃は月に5000円、安いと思うでしょう?
でも普通の家を借りるのと違います。
 
石見銀山ではすぐ住める家でした。
ここでは何年も人が住んでいなかった空き家です。
人が見たら住めるとは思えないような家でした。
言わば廃屋、それを自分で修理して住むのです。
別荘などとは程遠い田舎暮らしです。
 
田舎に住むということは、人の中に住むことです。
それは銀山でもここでも同じです。
人間関係が都会よりもずっと濃密なので、
上手にこなしていかなければなりません。
大変なようだけれど、それが田舎に住むよさだと思います。
 
人の姿がよく見えるので、人の魅力がよく分かります。
銀山でもここでも、魅力的で素敵な人たちの中で暮らしています。
どの人にも見事な物語があります。
都会でも本当はそれは同じです。でも都会ではそれが見えない。
 
介護の仕事を5年間やってよかったと思うことは、
田舎で感じる人の魅力が、都会でも感じられたことです。
それについてはまた書きましょう。
 
風呂には大きなひさしがあるので、
雨の中でも風呂を沸かしたり入浴できます。
夕方にはホトトギスやヒグラシが鳴いていました。
雨の夜は虫も鳴かず、静かに雨の音だけが響きます。