竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

被災地陸前高田でのボランティア活動 その3

2011-05-31 11:18:00 | 被災地ボランティア

ボランティア参加者の中には、ベビーブーム世代の人もいました。定年になり会社を辞めて、自宅のあった京都から奥さんの実家のある下関に移り住んだ人。買い物も医療機関にも便利で、おまけに大好きな釣りも出来るから移ったとのことです。奥さんといっしょに車で金沢や山形を回って遠野に来て、5日ほどボランテイアをしてから下関に帰るようです。
 
彼や前に書いたM氏と親しくなったのは遠野に入った翌日、雨で作業中止となり、有志が「たかむろ水光園」に昼食つきの温泉ツアーを計画し、それに参加したからでした。昼食の席で10人ほどの参加者が自己紹介をしていろいろ語り合ったのです。
 
この日は午前中は会議室で、遠野の昔話の語り部の女性が昔話を語ってくれました。カッパの話、座敷わらし、おしらさまの話、笑い話など40分間話してくれました。全て遠野方言の話で、故郷に近いのでよく分かりました。かまど返し(破産すること)は懐かしい言葉でした。
 
夜は神戸からリピート山中というシンガーソングライターが来て、ライブをやってくれました。彼の名前は知らなかったけれど、関西では「ヨーデル焼肉食べ放題」が知られているそうです。プロの歌手なのでさすがに達者で、歌への情熱が伝わるとてもいいライブでした。ボランティアの参加者は私とM氏他数人で少なく、他はまごころネットの事務局の人たちが集まって盛り上げていました。以下はYouTubeに載っている彼の歌声です。
 
私が帰ったあとのことですが、28日、29日、30日と雨でまごころネットの作業が初めて3日連続で休みになったとき、遠野物語の作者柳田國男の長男のお嫁さんが本好きの人を柳田國男の書斎を遠野に移した柳田國男伝承館に招待してくれたそうです。まごころネットのホームページに載っている記事をご覧下さい。
 
休みの日にはいろいろ企画してくれて、遠野まごころネットの人たちには感謝しています。   続く。


被災地陸前高田でのボランティア活動 その2

2011-05-29 07:41:43 | 被災地ボランティア

今回作業をやった場所は陸前高田市の小友町の田圃です。津波を被った一番高いところにある山側の田圃から、下に向かって一枚一枚片付けていきます。田圃の中には家屋から出た木材、瓦、家具の断片、ガラスの破片などが散らばっています。田圃の脇の道路の隅にそれらを集めて、重機で扱いやすくします。 

瓦礫の中に写真や教科書など思い出に残る品があれば拾い集めます。田圃の中には自動車や小さな舟までころがっています。それらは重機出なければ駄目なので残しておきます。津波を被った田圃は塩分が強いので、表土を入れ替えなければ田植えが出来ません。来年?再来年?まだまだ時間がかかります。
 
この地区は陸前高田市の東側、広田湾の東に突き出た小さな広田半島の付け根にあたる地域です。太平洋側からは黒い津波、広田湾からは白い津波が押し寄せて、付け根の真ん中でぶつかり合ったと言います。
 
休憩時間にそばに行ってみました。青い空の下、瓦礫の山が延々と続きます。小学校は平地にあったので津波にのまれてしまいました。今や建物の残骸も一つもなくただただ瓦礫だけが広がっています。空にはカラスやかもめが何ごともなかったように舞っています。しばらく言葉もなく呆然と見つめていました。
 
一班10人編成で5班ほどがここで作業をしています。男女かかわりなく同じ作業をします。若い女性達は元気にネコ車を押したりスコップを使ったりしています。中高年の男性はこういう仕事に慣れた人が多いのか、率先して力仕事をしています。田圃の脇の水路を埋めたヘドロだし作業には男達がかりだされ、溝をまたいだり溝に踏み込んで作業をしました。一緒に行動した同年輩のM氏はかなりこたえたようでした。
 
M氏は一番仲良くなった人です。同じぐらいかと思ったら60歳になったばかりでした。品のいい静かな人です。この春定年になり、1年契約でもとの会社に通っていますが、これから何をしていいか分からずボランテイアに来たといいます。
 
実は2月11日、会社から戻ったら奥さんがソファに倒れていました。もう息がありません。前々から高血圧でしたがそれまでは元気だったそうです。死因は脳梗塞、子供さんは30歳の男と28歳の女、二人ともまだ独身ですが外に出ています。彼は突然一人っきりになってしまいました。真面目なサラリーマンとしてやってきた人のようですから、特に長く続けている趣味もないそうです。
 
それでも思い切ってボランティアに応募してここまで出てきたのだから、彼の前には新しい人生が開けてゆくでしょう。     
                         続く

 


被災地陸前高田でのボランティア活動 その1

2011-05-27 18:50:40 | 被災地ボランティア

ここで皆さんに私のわずかなボランティアの経験をお話しするのが、どれほど意味のあることか分かりません。でも震災は多くの人の命を奪い、生活の基盤を破壊しました。多くの人の悲惨な体験ですし、その一方でボランティア活動に参加している人たちも大変な数にのぼります。現代日本を深くえぐる体験だと思います。そのほんの一部についての報告です。

 
今回陸前高田にこだわって田圃の瓦礫の整理ばかりやっていたので、現地の人と話す機会はほとんどありませんでした。6月の下旬にまた行こうと思っています。その時は現地の声を聞いて伝えられるかもしれません。今回はボランテイア参加者の様子が中心になります。
 
26日の朝夜行バスで遠野から帰ってきました。21日朝遠野についてからすぐ遠野のまごころネット本部に行き、そのまま陸前高田へ行って瓦礫の撤去をし、翌日は雨で休み、23,24,25日とまた瓦礫の撤去をしました。
 
宿泊は女性は畳の部屋で寝袋、男性は体育館の中で寝袋で寝ます。食事はコンビニやスーパーで買ったり、近くの食堂に行ったりします。風呂はシャワーのみ、15分刻みで4つのシャワーを予約して使います。私のいたときは総勢150人ほどで、毎日出入りがあります。
 

参加者は男女比3対1ぐらいでしょうか。男は私と同年輩の人もかなりいます。女性は若い人が中心で、外国人男女も数人見かけます。沖縄から北海道まで全国から集まっています。期間は一泊から長い人で2週間ぐらいまでが多いようです。これほどの人が全国から集まってボランティアで泥仕事をやるのですから、考えてみれば大変なことですね。
 
7時半に朝礼があり、様々な活動上の注意を受け、釜石、大槌町、陸前高田それぞれに求人があり、自分の希望する場所に行くことになります。
 
注意は怪我をしないようにすることと、被災地の写真を撮って現地の人の心を傷つけないこと。神戸の震災の時に写真を撮って被災者達から石を投げられて殺されたというカメラマンの話を聞かされました。まごころネットの中心で活動している人たちには、神戸の震災や新潟の中越地震でボランティアを経験した人たちがいました。被災者に手伝ってやっているなんていう傲慢な気持ちを持つな、手伝わせてもらっていると言う謙虚な気持ちを持て、と毎日言われます。写真は禁止です。
 
釜石や大槌町では津波をかぶったけれどまだ残っている家の泥だしや片付け、陸前高田では田圃の瓦礫の撤去が中心です。装備は鉄のインソールを敷いた長靴、ゴム手袋、二重のマスク、作業によってはゴーグル、帽子ないしヘルメットです。
 
8時半ごろ用意されたバスに乗って現地に向かい、陸前高田の場合は10時ごろから作業に入ります。午前と午後15分ずつ休憩が入り、昼食休憩は1時間、作業は3時までには切り上げ,、バスに乗って遠野に帰ります。遠野に着くのは5時過ぎになります。続く。
 
 
 

 


遠野から被災地へ

2011-05-20 11:01:52 | 日記

20日の夜池袋発の高速バスで遠野に向かいます。
26日の朝東京に戻ります。
 
内陸の遠野市が三陸沿岸の被災地の後方基地として、
ボランティアセンターを立ち上げて、全国からボランティアを募集しているので、
それに登録しました。
 
寝袋持参で体育館に泊まり、食事は近くの店を利用します。
遠野からバスで現地のボランティアセンターに行き、
そこで仕事をもらってバスで現場に行きます。
 
陸前高田の復興は問題山積みです。
でもそんなことは言っていられない、今必要とされることをこなしていくだけですね。
 
瓦礫の片づけをすることを考えて、破傷風の予防接種をしました。
2週間後つまり明日から効力があり、一ヵ月後と半年後にあと2回接種します。
天災ボランテイア保険にも入っています。
 
暗いニュースばかりですが、明るいニュースもありました。
母方の従妹の家は津波の被害を受け一階は壊滅しました。
でも家族は全員無事で、仮設住宅に当たりました。
従妹は震災前ローソンをやっていましたが、
ローソンは被災地の店の復活に熱心なので、
またやることになるようです。
 
静岡でも岩手でも田舎は子供が少なく、高齢者ばかりです。
掛川の居尻地区には、小学生もそれ以下の乳幼児も一人もいません。
去年の春小学校は廃校になりました。
もしこの地に三陸のような震災が来たら、復興は不可能でしょう。
 
陸前高田には気仙沼や大船渡のような漁業基地ではないので、
居尻と似たような状況のようです。
 
でも先のことを考えるのはやめましょう。
私には今出来ることをやるしかありません。
 
遠野は2回行ったことがある好きな町です。
明日の朝遠野に着きますが、
そのまま瓦礫の片付けはきついので、
一日遠野を見てまわろうかと思っています。


被災地でのボランテイア その2

2011-05-01 11:41:45 | 日記

翌日28日心ならずも東京に帰る準備を始めました。
 
都市機能が集中する高台に一関行きのバス停があります。
そこまで5キロほどの道を歩こうと思っていたら、
私を妹が嫁いでいるお寺に泊まらせようと、別な従兄が迎えに来ました。
これから帰ると言ったら、宿からバス停まで車で送ってくれました。
その距離を進むのに渋滞で二時間近くかかりました。
バス停では別な従姉たちが来て見送ってくれました。
 
故郷の復活は10年20年かかる仕事です。
今回の帰郷で数十年ぶりに地元の従兄弟たち、
従姉妹たちとゆっくり話すことが出来ました。
 
思い出の街は跡形もなく流されたけれど、
人との繋がりが故郷なのだということを痛感しました。
子供時代の私のことを覚えている人たちがいて、
私が来た事を喜んでくれた、その場所がまだ残っています。
 
ゴールデンウィークに宮城、岩手両県にボランテイア希望者が殺到しています。
ボランテイアに頼まなければならない仕事も限りなく沢山あります。
でもまだ受け入れ態勢が不十分な状態です。
 
ちょうど内陸の遠野市が、三陸沿岸の被災地復興のための後方基地として動き始めました。
遠野にボランテイア希望者を集めて、グループでバスで各地に派遣することになるようです。
泊まるのは遠野の体育館、自炊は不可、食料は周囲の店で買うということで、
ボランテイアの安全を考えています。
 
 
これに私も申し込もうと思いましたが、今は収容人数を越えたのか、
ネットでの登録はできませんでした。
連休後、登録しようと思っています。
 
岩手は厳しい世界です。
人々は優しいけれど厳しい目も持っています。
そんな人たちから見れば私など身勝手でわがまま、
つまはじきしたいような人間でしょう。
それを知っているので、私も故郷を見まいとしてきました。
でも歳をとることのよさなのか、
様々な人がいてもいい、私を嫌う人がいてもいい、
そんな風に思えるようになりました。
 
死を前にすればみんなはかない小さな命です。
津波の引いた後の瓦礫の整理をした場所に、
鮮やかな黄色の水仙が咲いていました。
命ははかないから美しい、そんな気がした3日間でした。