心ならずも独立することになってしまった、
こうなったら自分で作っていくしかない、
とりあえず本の中にあるかごを作って売っていくしかない、と決めました。
農具は親方と競合するし、日曜雑器はプラスチックその他に負けている、
花かごを作るしかないと考えました。
仕事場は本堂があった盛り土に、竹を組んで立てることにしました。
孟宗竹の三脚を二つ作り、それに梁を渡して、竹の枝を並べる。
茅があればいいんですが、そんなものはない。
手元にあって使えそうなのは竹の枝、
それを並べただけでは雨が漏るので、
その上にビニールシートを張りました。
作った花かごは松江の観光物産館が置いてくれ、
少しは売れたので、だんだん品数を増やしていきました。
銀山ではいい友達が出来ました。
土方時代に知り合ったS さんは一歳年長、
東京で左官の職人をしていましたが、
左官仕事が減り、大田市にいたお母さんが認知症になったため、
奥さんと二人の子供と一緒に故郷に帰り、
土方をやっていたのです。
職人さん特有の高貴さをたっぷり持った、
品のいい素敵な人でした。
この人とは家族ぐるみで付き合って、
我が家の子供たちもよく可愛がってくれました。
近所の人たちも親切で、どこの馬の骨とも分らない人間を、
親切に扱ってくれました。
続く
縦網代バッグ
隣が竹細工をやる家だということは前から知っていた。
でも私自身は竹細工に全く関心が無かった。
竹細工の親方は言う、「俺の仕事は儲かるぞ」
私は心ならずも土方をやっていた。
肉体労働は本来好きである。でも土方は、このままでは将来性が無い。
そこですぐ教えてくださいと頼んだら、その場で承知してくれた。
間もなく私は土方をやめて、隣の家に竹細工を習いに通うようになった。
仕事場は広いので、私がいても邪魔にならない。
親方が作っているのは石箕、背負い篭、米上げ笊など、
農家で使われるものだ。
竹細工の修行は竹の割り方、つまり編む材料を作ることが中心だ。
丸のままの二間ほどの長さの竹を四つ割りにし、
さらに細かく割り、次に皮から身をへぐ。
さらにそれを細かく割り、また身をへぐ。
そんな過程を通じて、同じ厚さ、同じ幅のひごを沢山作るのだ。
二ヶ月ほど通ううちに、親方の作る石箕や背負い篭をある程度作れるようになった。
すると「これからお前は別なものを作れ、もっと細かい仕事があるから、
自分でそれを作って行け」と言われた。
実は親方自身竹細工の仕事が無いときには土方をやっていた。
大して需要がないのに作り手が二人では共倒れになる。
しかし私は愕然とした。
京都にいたこともあるが、竹細工に全く関心が無かったから
何も見ていないのだ。
ここで独立したとしても何を作ればいいか分らない。
親方も別な竹細工の世界があることは知っていても、
実際に作ったことは無いのだ。
そこで何か本でもないかと本屋を探し、出雲市の本屋ですごい本を見つけた。
佐藤庄五郎著「図説竹工芸」である。
今に至るまで、この本以上に詳しい竹細工の本は、見たことが無い。
竹を割ったりへいだりする技術はある程度身に付いた。
編むこと、これは見本がなければとても身に付かない。
この本には様々の籠の作り方が、縁飾りの籐の使い方、
竹の染め方にいたるまで、写真と詳しい図によって示されている。
この本によって、私の進む道が少し開けてきたのである。
続く
三枚とも神代植物公園のバラの写真
囲碁や将棋が好きな人がいらっしゃいます。
囲碁は出来ませんが、
将棋は私自身.も好きで、時々相手をしていました。
こういう勝負事って、
自分が負ければ相手が喜ぶことが分っていても、
わざと負けるってことは出来ないんですね。
これはその人の性格にも寄るかも知れません。
ある時、将棋がとても強いという評判の男性が入ってきました。
大病を患った後で、何もすることが無いので、
デイサービスに通うことになった人でした。
日本将棋連盟の指導普及員をやったことがあり、
女性プロ棋士を教えて育てたということでした。
腕前は五段、都のアマチュア棋戦などで優勝していたようです。
他にすることが無い人なので、
私が将棋のお相手をさせてもらいました。
私は将棋の初段、
新宿の将棋センターで七連勝して、
あと一勝で二段になれるところで負けちゃった、
それが私の自慢、そんな程度ですので、
その人と対戦するときには胸がふるえました。
五段といえば大先生です。
駒の並べ方から本式に教わりました。
勝負は私の勝ちが多かったのですが、
そんなことは問題じゃありません。
その人の衰えははっきりしていました。
でも将棋は本当にお好きなのです。
玉川上水緑道
糖尿病と分かって一年後、掛川小笠マラソンに出場しました。
タイムは3時間45分、初マラソンとしては上々の成績です。
一年間毎日マラソンのトレーニングをやってたようなもの、当然ですね。以来毎年数回、マラソンレースに参加しています。
その頃登山も始めました。
大学生の長女と一緒に東京都の最高峰、雲取山に登ったのです。
その時私のほうが軽々と登ったので、自信がつきました。
翌年初めて3000m級の南アルプス千丈ケ岳に、一人で登りました。
以来北岳、間ノ岳、八ヶ岳、赤石岳、荒川岳、聖岳、穂高岳
富士山、ボルネオのキナバル山などに、毎年のように登っています。
糖尿病になるまでは、マラソンも登山も無縁で、
小学校時代は徒競走はいつもビリ、運動神経の鈍い子供でした。
糖尿病のおかげですっかり生活習慣が変わってしまいました。
マラソンや登山は、走れる限り一生続けるでしょう。
糖尿病という死神が後ろから追いかけて来ていますから。
緑道に咲くノカンゾウ
でもいいことばかりではありません。
マラソンのタイムは走り始めて2年後に3時間30分を記録してから、徐々に下がり始め、近年5時間近くになってきました。
そんな時本業の竹細工の不振から、デイサービスで働き始めました。 今度はストレスも加わって、血糖値がだんだん上がってきます。
そこで2年前から東京の近所の医者を毎月一回受診し、
糖分の消化を遅らせる薬を飲み始めました。
この薬は低血糖になる心配がないので、
マラソンも登山もそのまま続けられます。
昨年から、このままではマラソンで5時間を割ってしまうと思い、
再び毎月300キロを目標に走っています。
昨年末の筑波マラソンでは10年ぶりに3時間台に乗りました。
レースはいつも新鮮な気持ちで毎日の運動療法に励むためです。
人間ってずるくて弱い存在ですから、
何とか理由をつけてサボろうとします。
そんな自分に鞭打つため、レース参加は欠かせないものです。
糖尿病になってよかったとは言いません。
でも新しい豊かな世界が開けました。
これからも闘いは続いて行きます。
玉川上水