竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

石見銀山で竹細工を習う、 その五

2009-07-21 01:08:50 | 竹工芸

                                      

心ならずも独立することになってしまった、
こうなったら自分で作っていくしかない、
とりあえず本の中にあるかごを作って売っていくしかない、と決めました。

農具は親方と競合するし、日曜雑器はプラスチックその他に負けている、
花かごを作るしかないと考えました。

仕事場は本堂があった盛り土に、竹を組んで立てることにしました。
孟宗竹の三脚を二つ作り、それに梁を渡して、竹の枝を並べる。
茅があればいいんですが、そんなものはない。
手元にあって使えそうなのは竹の枝、
それを並べただけでは雨が漏るので、
その上にビニールシートを張りました。

作った花かごは松江の観光物産館が置いてくれ、
少しは売れたので、だんだん品数を増やしていきました。

銀山ではいい友達が出来ました。
土方時代に知り合ったS さんは一歳年長、
東京で左官の職人をしていましたが、
左官仕事が減り、大田市にいたお母さんが認知症になったため、
奥さんと二人の子供と一緒に故郷に帰り、
土方をやっていたのです。
職人さん特有の高貴さをたっぷり持った、
品のいい素敵な人でした。

この人とは家族ぐるみで付き合って、
我が家の子供たちもよく可愛がってくれました。

近所の人たちも親切で、どこの馬の骨とも分らない人間を、
親切に扱ってくれました。
                                   続く


石見銀山で竹細工を習う、 その四

2009-07-20 04:29:36 | 竹工芸

                                 
                                            
縦網代バッグ

隣が竹細工をやる家だということは前から知っていた。
でも私自身は竹細工に全く関心が無かった。
竹細工の親方は言う、「俺の仕事は儲かるぞ」

私は心ならずも土方をやっていた。
肉体労働は本来好きである。でも土方は、このままでは将来性が無い。
そこですぐ教えてくださいと頼んだら、その場で承知してくれた。

間もなく私は土方をやめて、隣の家に竹細工を習いに通うようになった。
仕事場は広いので、私がいても邪魔にならない。
親方が作っているのは石箕、背負い篭、米上げ笊など、
農家で使われるものだ。

竹細工の修行は竹の割り方、つまり編む材料を作ることが中心だ。
丸のままの二間ほどの長さの竹を四つ割りにし、
さらに細かく割り、次に皮から身をへぐ。
さらにそれを細かく割り、また身をへぐ。
そんな過程を通じて、同じ厚さ、同じ幅のひごを沢山作るのだ。

二ヶ月ほど通ううちに、親方の作る石箕や背負い篭をある程度作れるようになった。
すると「これからお前は別なものを作れ、もっと細かい仕事があるから、
自分でそれを作って行け」と言われた。
実は親方自身竹細工の仕事が無いときには土方をやっていた。
大して需要がないのに作り手が二人では共倒れになる。

しかし私は愕然とした。
京都にいたこともあるが、竹細工に全く関心が無かったから
何も見ていないのだ。
ここで独立したとしても何を作ればいいか分らない。
親方も別な竹細工の世界があることは知っていても、
実際に作ったことは無いのだ。

そこで何か本でもないかと本屋を探し、出雲市の本屋ですごい本を見つけた。
佐藤庄五郎著「図説竹工芸」である。
今に至るまで、この本以上に詳しい竹細工の本は、見たことが無い。
竹を割ったりへいだりする技術はある程度身に付いた。
編むこと、これは見本がなければとても身に付かない。

この本には様々の籠の作り方が、縁飾りの籐の使い方、
竹の染め方にいたるまで、写真と詳しい図によって示されている。
この本によって、私の進む道が少し開けてきたのである。

                              続く


石見銀山で竹細工を習う、 その三

2009-07-19 04:14:42 | 竹工芸
          
本堂跡の盛り土の上に作った木製の遊具で遊ぶ子供たち
後ろが庫裏
 
当時私は32歳、妻と4歳と2歳の子供を抱えていた。
今思えばなんと無茶な、と思わないでもない。
でもその当時はまさに夢中、こわいもの知らずだった。
 
借りたお寺は家賃月3000円、修理せずにすぐ住める家だった。
オンボロだが中古車も買った。
一ヶ月ほどして家族が引っ越してきた。
 
この家は北向きで、川幅5メートルほどの銀山川にかかった橋を渡り、
石段を上がって行くと、本堂があった場所が盛り土になっている。
大きな楠木と銀杏があり、盛り土の奥に庫裏がある。
後ろは山で寺の墓地になっており、孟宗竹が生えている。
 
石段、楠木という設定は、「隣のととろ」の映画に出てくる家にそっくり、
五右衛門風呂で、水はすぐそばの小さな谷から、
孟宗竹をくりぬいた樋をつないでで引いていた。
 
前の勤めの頃にせっせとお金を貯めていたので、
初めはゆとりがあり、小さな灯油釜や電動轆轤を買って、
陶芸をやるつもりだった。
 
でも物になるわけもない。
まもなく私は町の土建会社で土方をすることになった。
二ヶ月ほど働いたある日、
かなり離れているが、一応隣の家のおじさんが一杯機嫌で遊びに来た。
その人の仕事が竹細工だったのである。
 
                           続く

石見銀山で竹細工を習う、 その二

2009-07-18 04:40:15 | 竹工芸
                  
 
当時過疎地といえば岩手県か島根県、
岩手県は生れ故郷、
そんなところにひょこひょこ行けるわけも無い、
そこで選んだのが島根県です。
 
仕事をやめた4月、松江に行きました。
松江で中古自転車を買って、海岸沿いを西へ向かいました。
どこか陶芸の修行をさせてくれるところを探して。
勤めていたときに陶芸教室に通っていたのです。
 
ところどころの窯場で修行させてくれないか尋ね、
ユースホステルに泊まっては情報を集め、津和野まで行きました。
そこで痛感したのは、島根の大幹線9号線でさえ坂だらけ、
自動車がなければとても暮していけないことです。
 
幸い津和野の近く、島根県の西のはずれの益田市に、
寮付きの自動車教習所がありました。
そこに入所して免許をとっている間に、
石見銀山という過疎の村があることを知りました。
 
免許証を手に入れてから、自転車で今度は東へもどります。
銀山の近くの仁摩町のユースホステルに泊まり、銀山を訪ねました。
ふと立ち寄った瀬戸物屋さんのおじいさんに聞いてみたら、
その人が檀家総代をしている寺が空いているというのです。
本堂は既に無く、庫裏だけあり、
そこに住んでいた故住職の奥さんが亡くなって、今は空いている、
年に一日だけあけてくれれば、貸してもいいということでした。
 
お寺のすぐそばに幼稚園が付いた小学校もあります。
そこでその寺を借りることにしました。
                          続く
 

石見銀山で竹細工を習う、その一

2009-07-17 04:52:45 | 竹工芸
                               
 
電球によって、竹の編み目を通す光が
思わぬ効果を出すことがあります。
 
この写真はその一例。
 
私が竹細工を覚えたのは、石見銀山でのことでした。
今は世界遺産になって、すっかり有名になりましたが、
32年前は、時代劇に出てくる毒薬の名前として有名でした。
 
そこで古いお寺を借りて家族四人で三年ほど暮していました。
 
何でそんなところに住んだかって?
田舎で暮したかった。
今ベビーブーム世代が定年退職をする時期になって、
田舎に住みたい、
という希望をもっている人たちが多いというでしょう?
 
当時もベトナム戦争や学園紛争の時代で、
ちょうどアメリカでヒッピーが流行っていた時代でした。
現代文明を捨てて自然に戻ろう、なんて風潮がありました。
そんな波に乗ったのかな。
                         続く
 
 

川遊び

2009-07-16 04:53:43 | 竹工芸
              
 
この写真はU字型灯りを川の浅瀬にたてたもの。
いたずらです。
 
村はこの川沿いに発達し、村の命とも言うべき川。
太田川にそそぐ原谷川の源流ちかくです。
 
家のそばを流れており、
大人もちょっとだけ泳げる淵があり、
他に来る人もないので、
プライベートビーチのようにして、
夏の昼休みは毎日のように、
子供たちと一緒に、川に行きました。
 
川につかって籠を編んだこともあります。
 
石の影にはアブラハヤやカワムツがおり、
たも網ですくって、いつも家の水槽でかっていました。

U字型灯り

2009-07-15 05:33:11 | 竹工芸

                

灯りではいろいろな編み方を試みることが出来ます。
これもその一つ。
 
二種類の電球を入れると感じが変ります。
 
全くのオブジェを作るのは抵抗があります。
 
竹ってかなりの可塑性がありますが、
折れることもあるので、
折れない範囲でどこまで曲げるかが、
造形のポイントになります。
 
            

二段灯り

2009-07-14 04:49:11 | 竹工芸
これは一本の竹を裂いて開くシリーズの一つ。
 
一本では立たないので三本組みにしました。
大きくなりましたが、
作る人間としては面白い。
竹の持っている性質を生していくのが私の仕事です。
 
               

将棋 介護の仕事で学んだこと その四

2009-07-13 14:38:57 | 介護

三枚とも神代植物公園のバラの写真
 
デイサービスに来る男性たちのなかに、
囲碁や将棋が好きな人がいらっしゃいます。
囲碁は出来ませんが、
将棋は私自身.も好きで、時々相手をしていました。

こういう勝負事って、
自分が負ければ相手が喜ぶことが分っていても、
わざと負けるってことは出来ないんですね。
これはその人の性格にも寄るかも知れません。

ある時、将棋がとても強いという評判の男性が入ってきました。
大病を患った後で、何もすることが無いので、
デイサービスに通うことになった人でした。

日本将棋連盟の指導普及員をやったことがあり、
女性プロ棋士を教えて育てたということでした。
腕前は五段、都のアマチュア棋戦などで優勝していたようです。
他にすることが無い人なので、
私が将棋のお相手をさせてもらいました。

私は将棋の初段、
新宿の将棋センターで七連勝して、
あと一勝で二段になれるところで負けちゃった、
それが私の自慢、そんな程度ですので、
その人と対戦するときには胸がふるえました。



五段といえば大先生です。
駒の並べ方から本式に教わりました。

勝負は私の勝ちが多かったのですが、
そんなことは問題じゃありません。
その人の衰えははっきりしていました。
でも将棋は本当にお好きなのです。
勝ち負けに全くこだわらず、
目の前の将棋に没頭なさっていらっしゃいました。
 
まもなく病気が悪化して来れなくなり、
お亡くなりになったと聞きました。
この人と将棋を指した体験は、私の宝物になっています。



糖尿病と闘う その三 マラソンと登山

2009-07-12 10:04:46 | 糖尿病

玉川上水緑道

糖尿病と分かって一年後、掛川小笠マラソンに出場しました。
タイムは3時間45分、初マラソンとしては上々の成績です。
一年間毎日マラソンのトレーニングをやってたようなもの、当然ですね。以来毎年数回、マラソンレースに参加しています。

その頃登山も始めました。
大学生の長女と一緒に東京都の最高峰、雲取山に登ったのです。
その時私のほうが軽々と登ったので、自信がつきました。
翌年初めて3000m級の南アルプス千丈ケ岳に、一人で登りました。

以来北岳、間ノ岳、八ヶ岳、赤石岳、荒川岳、聖岳、穂高岳
富士山、ボルネオのキナバル山などに、毎年のように登っています。

糖尿病になるまでは、マラソンも登山も無縁で、
小学校時代は徒競走はいつもビリ、運動神経の鈍い子供でした。
糖尿病のおかげですっかり生活習慣が変わってしまいました。

マラソンや登山は、走れる限り一生続けるでしょう。
糖尿病という死神が後ろから追いかけて来ていますから。


緑道に咲くノカンゾウ

でもいいことばかりではありません。
マラソンのタイムは走り始めて2年後に3時間30分を記録してから、徐々に下がり始め、近年5時間近くになってきました。
そんな時本業の竹細工の不振から、デイサービスで働き始めました。 今度はストレスも加わって、血糖値がだんだん上がってきます。

そこで2年前から東京の近所の医者を毎月一回受診し、
糖分の消化を遅らせる薬を飲み始めました。
この薬は低血糖になる心配がないので、
マラソンも登山もそのまま続けられます。

昨年から、このままではマラソンで5時間を割ってしまうと思い、
再び毎月300キロを目標に走っています。
昨年末の筑波マラソンでは10年ぶりに3時間台に乗りました。

レースはいつも新鮮な気持ちで毎日の運動療法に励むためです。
人間ってずるくて弱い存在ですから、
何とか理由をつけてサボろうとします。
そんな自分に鞭打つため、レース参加は欠かせないものです。

糖尿病になってよかったとは言いません。
でも新しい豊かな世界が開けました。
これからも闘いは続いて行きます。


玉川上水