竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

最後の陸前高田訪問

2012-12-04 14:52:05 | 被災地ボランティア
3日の朝陸前高田から帰ってきました。
10月から遠野まごころネットに頼らず自分で高田に往復してきました。
今回が最後の陸前高田訪問になります。
 
午前中は下壷仮設、午後は長部のコミュニティセンターです。
停留所の市役所前から下壷仮設までは歩いていきます。
仮設の市役所。

ところどころで山を伐り開いて宅地造成をしていました。

平地は全部津波を被ってしまったので、宅地にする場所が少ないのです。

 
旧市街地は山際に8メートルほどかさ上げして、商店街を作ると言うことですが、
まだ津波で破壊されたビルの残骸を片付け始めた段階で、
復興は大分先のことになりそうです。
 
下壷では前もって集会所を開いておいてくれるので早く着いたらそこで一休み。
教室が終わるとお昼を用意してくれています。
そして車で長部のコミュセンまで送ってもらいます。
 
そして長部での教室が終わると市役所前まで送ってもらいました。
夕食は途中のラーメン屋で食べましたが、そのお金も出してもらいました。
 
ボランティア活動と言っても結構皆さんの世話になっています。
おまけに今回はそれぞれの教室で生徒さんから謝礼を貰いました。
散々お世話になりながら謝礼を貰うわけには行かないので、
その分クラフトテープを送ることにしました。
 
ボランティア活動でどこに行っても、地域の繋がりの強さを感じます。
大昔からそうやって苦しい時には助け合ってしのいできたのでしょう。
力を持った人が自然にそれを発揮してみんなに役立てる、
それが日本社会を底辺から支える力になっているのでしょう。
都会ではあまり見られない地方の強さです。
 
今度の震災でそんな底力を随所で感じました。
そこに都会の若い人たちが参加してボランティアとして活動しています。
私などは生まれ故郷だから当然のこととして、
縁もゆかりもない人たちが活動しているのを見ると頭が下がります。
そして日本の底力と未来を信じる気持ちになります。
 
自分が行動することで、自分の未来も見えてきます。

昨年の4月から今回まで、いろいろな形で被災地を訪れてきました。
自己中心的で身勝手な私には貴重な体験でした。
応援してくださった皆さん、ありがとうございました。
 

陸前高田市での11月のボランティア活動 

2012-11-17 20:35:12 | 被災地ボランティア
10日の夜の夜行バスで陸前高田市へ行き、11日の日曜の午前と午後、竹駒の下壷仮設と長部のコミュニティセンターでかご編みを指導して来ました。
 

先月は帰りの便を夜の11時発にしたので、かご編みが終わる4時からバスの発車までホームセンターやレストランで時間をつぶすのに苦労しました。陸前高田は竹駒町の一角に震災後大きいスーパーやらホームセンター、ドラッグストアーが固まって出来たので、そこだけが賑やかになっています。

 
今回は5時過ぎのバスで気仙沼に行き、そこから仙台行きのバスに乗り換えて、仙台で2時間つぶして11時の夜行バスで帰ってきました。気仙沼には昨年一度だけ日本財団の足湯隊に参加して活動してきました。その時は昼間だったので、街の惨状を目の当たりにしました。今回は夜で何も見えません。
 
気仙沼の市役所は無事で、そこでバスを乗りかえることになっていました。1時間待ち時間があるので、そこで夕食をと思っていましたが6時を過ぎると店はみんな閉まってしまいます。郊外型の大規模店舗だけは賑やかで中心部はひっそりしています。もっとも地方の小さな町は被災地でなくともそんな傾向にありますね。
 
結局仙台で夕食をとりました。ここは10時過ぎても不夜城のような明るさで、さすが大都会は違います。
 
東北行きはあと12月が一回だけ、そう思うと寂しい気持ちになります。
陸前高田については復興計画はまだ作成中の段階で、11月から被災した市役所その他の公共建造物や民間のビルの取り壊しが始まります。
 
そのあと山側の旧市街の跡地に8メートルの盛り土をすることになっています。
でも竹駒から長部まで車を運転して連れて行ってくれた大工さんは、8メートルも盛り土をした上には、家を建てる気にはなれないと言っていました。そうですよね、表面上は高くなっても盛り土です、地震が来たらどうなるか。問題が山積みのようです。
 
私の活動は12月2日で終わりますが、復興はまだまだ先です。それに日本自体の復興の問題もあります。
 
私はもともと現代文明の未来についてはちょっと悲観的な見方をしていました。でもこういう大災害が起こって、それに立ち向かう人々を目の当たりにしていると、将来を悲観的に考えてなどいられません。みんなで力を合わせてよい世界を作っていかなければと思うようになります。
 
ボランティア活動としては本当に大したことは出来ませんでしたが、被災者の人たちや他のボランティアの人たちに教えられることの多い日々でした。
 

陸前高田でのボランティア活動

2012-10-16 14:39:49 | 被災地ボランティア
10月14日は陸前高田でかご編みをやってきました。
これからは単独行動になります。
自分で高田に行って自分で帰って来ます。
 
13日夜池袋発の夜行バスに乗ると、6時半に陸前高田の市役所前に着きます。
かご編みは竹駒で9時からなので、自分の生まれた辺りに行くことにしました。
高田小学校には、以前行ったときには気付かなかった二宮金次郎の像が残っていました。台座にコンクリートが打ってあるので、地震で倒れたのを接着したのでしょう。

 
前にも書きましたが生まれた家の辺りはただの野原で、遠くまで見渡せます。遊び場だった高台の本丸公園にある忠魂碑は倒れずに残っていました。従兄は、どんな石塔も倒れたのに、これが倒れなかったのは不思議だと言っていました。


 

中心街の大町にあったシートをかぶったものは七夕の屋台でした。
各町に屋台があったのですが、多くは流され、大町のものも新しく作られたものでした。それでも屋台が作られたことは、復興への心意気を感じさせます。

 
竹駒の下壷仮設の集会所にはいつものメンバーが6人ほど集まって、六つ目編みのかごを作りました。一人のメンバーがお昼を用意してくれていて、うどんと海苔巻きをご馳走になりました。高田にいた子供時代、海苔巻きが一番のご馳走で、お客さんが来たときは海苔巻きを作りました。そのお相伴に預かるのが楽しみでした。海苔巻きにはいろいろな思い出も詰まっていて、とても美味しくいただきました。
 
別な人が長部のコミュニティーセンターに車で送ってくれました。こちらでは10人ほどの人が集まって石畳編みの小さいかごを作りました。帰りは市役所の近くの店がいっぱい集まっている場所まで送ってもらいました。
 
そこには大きなスーパーのマイヤやホームセンター、ドラッグストアーやレストランが立ち並び、中心街のようになっています。ここは津波をかぶったところなので、いずれ高台やかさ上げされた地区に移るのでしょうが、とりあえず生活に必要な商品を扱う店が立ち並んでいます。一時的な店なのでどれもプレハブ建築です。そこのワンプレートとパンやライスを出す店で夕食を取り、近くの店で品物を見たり買ったりして時間をつぶし、10時近くに、バス停に行って池袋行きのバスに乗り込みました。
 
私は夜行バスではすぐ眠れます。いつもデジタルオーディオをイヤフォンで聞きながら眠ります。夜中に一、二度目がさめますが、またすぐ眠るのであまり疲れません。だから夜行日帰り夜行なんてことが出来るんですね。
 
ネットで見ると、15日の夜には一中の体育館で新市役所の建設についての説明会が開かたようです。

読売新聞の写真のコピー
 
市役所側はかさ上げされた荒町地区に市役所を建設する案を提示しましたが、高台の今仮設の市役所が建っている場所が良いとの意見も多かったようです。
荒町の予定地は私が生まれたあたりで、そこには昔の町役場もありました。

地元の商工会議所は市役所と商店街がまとまった場所になければ地元の発展も無い、という考えのようです。でもそのあたりには今住民が誰もいません。そこに商店街が出来てもどうなるのか、難しいことだらけです。

私の家があった辺り。上の写真と同じ場所です。
 
去年の11月頃にかさ上げと高台移転の大まかな復興計画が決まっています。
 
それを住民の納得を得て実行するのはまだまだ時間がかかることでしょう。

被災地支援 その2、陸前高田と大槌町

2012-09-25 14:43:12 | 被災地ボランティア
遠野の朝 ここに来るのも最後です。

17日18日は陸前高田の下壷仮設と長部でのコミュニティーセンターでのかご編みです。いつものように陸前高田のコーディネーター島田友理子さんに連れて行ってもらいました。
 
遠野早瀬川

下壷仮設では今後自分の足で来なければならないので、今回はくずかごを一日で仕上げるために、朝10時から午後4時までかご編みをすることにしていました。前もって材料は自分達で注文し、自分達で切っておくことになっていました。
 
でも一人の積極的な人がみんなの分を切ってくれていました。
8人分ぐらいですから大変な作業です。
お昼は私たちが自分で用意していましたが、その人も何人分か用意してくれていました。ホタテご飯と夕顔の煮付けです。どちらもとても美味しくて、懐かしい味がしました。4時を少し過ぎましたがなんとかみんな完成しました。

 
18日は午後1時から長部でのかご作りです。
今回は午後からなので9時半から一緒に参加するボランティアの2人に、かごに使うひも編みの講習会を開きました。2人は鹿児島大の女子学生で、東京までは飛行機で、上野からは夜行バスで来ていました。この時期夏休みなので学生が大勢来ています。被災地に行ってボランティアをするのは良い社会勉強になると思います。
 
講習したのは花の四つ編みと4本のマル編みです。
前回はこれが最後かと思って、急いで2本のひも編みをやりましたが、時間切れで十分やれませんでした。
 
今回行ってみると皆さん本体の網代編みの部分はしっかり完成し、一部の人はひも編みもほとんど完成していました。これならその内自立も可能でしょう。

 
島田友理子さん、毎回陸前高田まで送迎していただいてありがとうございました。随分無理なお願いをしたことがありましたが、かなえて下さったおかげで今後も活動を続けられます。10月からは遠野まごころネットを離れて、陸前高田で子供支援の活動をなさるとのこと、今後もどうぞお体に気をつけて持ち前の優しさでご活躍ください。
 
20日は最後の大槌町での活動です。こちらはいつも大槌町で活動してきたスタッフでしばらく離れていた人たちも参加し、小さな仮設にテントを張って午前中にかご作りをしました。10人ほどの人が集まってかご編みをしました。
 
午後はのんびり大槌町の海鮮レストランで昼食、私は店の名物イカ飯を食べました。海をすぐ下に見下ろす高台にあって、素晴らしい景色です。津波があったことを忘れてしまいます。
 
大槌町のカフェ隊には昨年10月被災地でのかご編みを始めてから、ずっとお世話になりっぱなしでした。活動の規模は小さくなりつつありますが、これからも続けていくようです。大槌町の人々にとってはありがたい存在でしょう。
 
来月からは遠野まごころネットの活動から離れて、自分で陸前高田に来ることになります。
 
来月は10月14日の午前9時から下壷仮設で、午後は1時から4時まで長部でかご作りをやります。下壷から長部までは、長部でもかご作りをやりたいと言う下壷仮設の人に、車で送っていってもらうことになりました。
 
13日の夜11時池袋発、陸前高田6時40分着
14日夜9時40分陸前高田発、15日朝5時40分池袋着
 
ちょっときついスケジュールですが、夜行バスには慣れているのでなんとかこなせるでしょう。
 
 
 
 

被災地支援 その1 昭和女子大のインターンシップ。

2012-09-24 08:32:34 | 被災地ボランティア
16日(日曜)の夜出発して、17日18日19日20日と活動をして、
21日の朝東京に戻って来ました。
 
17日18日のことは後で書きますが、19日に同級生に関係のある出来事がありました。
 
19日は大船渡のカフェ隊に参加することになっていました。
いつもならこのカフェ隊は何人かボランティアを募集して、
出発前にタッピングタッチという癒し効果を目指す軽いタッチを練習するのです。
今回は隊長の佐々木洋枝さんと運転者と私の3人だけで出発しました。
大船渡のまごころネット事務所で学生4人が参加するので、
そこで前もって学生達にかご編みの講習をして欲しいということでした。
 
事務所に行ってみると女子学生4人がいました。
昭和女子大の3年生3人と短大の1年生です。
昭和女子大?同級生が教えている学校です。
一人の学生が彼のの授業に出たと言っていました。
 
新聞社の政治部その他の編集長たちのが来て、
問題の捉え方や企画の仕方などの話をしてくれたということでした。
 
インターンシップというのはよく知らない制度ですが、
大学生や高校生が就職を決める前に、
その職業を経験するということのようです。
最近は就職してもすぐ辞める学生が多いので、
自分の志望とのミスマッチを避けさせようというものなのでしょう。
 
学生達は2班に別れ、2人は運転者といっしょに別な仮設に行き、
2人がかご編みの手伝いです。

 
私たちが今回行くところは小さな仮設住宅で、全部で5棟、その内4棟に入居者がいて、場所は大きなスーパーの後ろ、買い物などには便利な場所です。
 
入居者は高齢その他で車椅子を使う人たちです。
仮設の一室が談話室になっていて支援員の女性が二人常駐しています。
大船渡カフェ隊はしばしばここに来るらしく、カフェ隊で来た人たちの写真や、
支援員が作った紙の薔薇や花束が飾ってありました。

 
住人の一人の女性は一番かご編みを期待していたんだけれど、
家の中に工事が入って遅れてくるとのことでした。
 
支援員2人と高齢女性の2人の4人で編むことになって、
学生達は高齢の女性を手伝っていました。
2人とも学生達に大喜びで、まるで孫のようだと嬉しそうでした。
 
2人とも一人暮らしで、一人は86歳、震災前に娘さんを亡くしていて、
孫もいないとのことでした。でもその場では元気そうでした。
もう一人は70代、精しい話は聞けませんでしたが、
学生達に手伝ってもらってとても喜んでいました。
 
この仮設には男性の一人暮らしの人もいますが、
ほとんど外に出ず、タバコ好きで煙が溢れる部屋で暮らしているとか。
そこには隊長の佐々木さんが一人でお茶を持っていきました。

 
かごが出来た後支援員さんがまだ来ない人の分も作るといって、
もう一度挑戦していました。
 
こんな小さな仮設にやってきて、毎回いろいろな支援活動をやっている
大船渡のカフェ隊の活動は、まさに被災者に寄り添うという形です。
カフェ隊や支援員さんの優しさに触れて、ちょっと感動しましたね。
 
架設を出るとき車椅子で外に出て見送ってくれました。

被災地支援活動の変化 その1

2012-08-27 08:29:09 | 被災地ボランティア
8月18日から8月21日まで遠野に行って、被災地でかご編み活動をやってきました。
大学生が夏休みに入っているので、まごころネットは大混雑しているかと思ったら、
それ程でもなく、ゆったり寝ることが出来ました。
大震災から間もなく1年半、状況は変ってきています。

今の高田松原、砂浜が消えています。
 
今回は18日が竹駒の下壷仮設住宅の集会所、
19日は長部地区のコミュニティーセンターでかご作りをしました。
下壷仮設の集会所に行く前に、私を現地まで送って行って、かご編み活動を手伝ってくれる陸前高田のコーディネーターの人から、来月からは同じ活動を続けられないという話がありました。
 
まごころネットの活動がボランティアの減少、現地での自主的活動の進展と相俟って、活動の整理縮小傾向にあることは、少し前から目立ってきました。
私の活動も陸前高田ではコーディネーターの個人的な支援の形を取っており、スタッフの人数が減ってきている中で、私のために人員をさくのは難しいのです。

 
9月17日の下壷仮設での活動は連れて行ってもらえることになりましたが、長部地区での活動は無理ということでした。そこで17日の下壷での活動はその日一回で完成するように、朝10時から夕方4時までということにしました。
 
長部には今回で終わりということを話して、作り始めたかごをその後みんなで自主的に出来るように、難しいところを集中してやりました。でも今回で終わりということは私自身遠野に来て初めて知ったので、前もって材料を切ってもらっていたかごは2回で完成させるつもりのかごでした。それを一回で教えてしまうのは全体としては無理でした。みんなも途中で終わりと言う形になったので残念がっていました。
 

まごころネットに戻ってから長部まで送ってもらう形になれないか陸前高田担当のスタッフと交渉し、東京に戻ってから9月だけは17日下壷、18日長部と連れて行ってもらって活動できることになりました。10月以降は私が個人的に直接陸前高田に行って活動することになります。
 
19日に長部に行ったとき、途中で奇跡の一本松のそばに立ち寄って、あたりの写真を撮ることが出来ました。石を積んだだけの急造の堤防の上に立って海を見ると、まだ松の根や倒木が残され、その際まで海水が押し寄せています。

 

かって7万本植わっていた松林は砂浜から少し離れたところにありました。今は地盤沈下して遠浅の海に面した広い砂浜が消えてしまっています。これを見ると盛り土によってもかっての名勝高田松原を復活させることは不可能です。高田の魅力の第一は高田松原だったので、高田の復興の難しさを痛感しました。

奇跡の一本松のそばにあったユースホステル、かって。ここに泊まったことがあります見る影もありません。 

被災地の夏 かごを編むこと

2012-07-20 17:56:08 | 被災地ボランティア
7月13、14、15日と岩手に行って来ました。
いつもより一日少なかったので、少し楽でした。
バリ島旅行の疲れもまだ残っていたので、ちょうどいいところでした。

 
13日は下壷仮設の集会所、14日は大船渡のみなし仮設の雇用促進住宅、
15日は長部のコミュニティーセンター。
 
初日だけ天気が良くて後は雨模様でしたが、今回はどこも集会所だったので、雨も気にならずにすみました。

 
長部でのかご編みは六つ目かごです。これは簡単なようでいて結構難しく、この日一緒に行ってくれるスタッフとボランティアの3人に、前もって編み方の練習をしておきました。でもその場になると、忘れてしまって苦労が多かったようです。一緒に行った人たち、ご苦労様でした。

 
かご編みって簡単なようでいて結構難しく、ボランティアの人たちも関心を持って、参加させてくれという要望があります。車に乗れる人数の関係で、お断りすることもあります。私はボランティアの人たちも、関心があれば編むことを覚えて欲しいと思います。それに協力することも私の仕事だと思っています。

ナナカマド
 
編むことは人類と共に古くからある技術です。最も原始的な暮らしをしている人たちが、素晴らしい編む技術を持っています。サラワクのプナン族もそうですし、南米コロンビアのデサナ族もそうです。

セイヨウノコギリソウ

未曾有の大災害から立ち上がるためには、人間の原初からの活動を体験することで、力を得られるかも知れません。とまあ、そんな夢のようなことを思ったりしています。
 

被災地にて、遠野の帰化植物。

2012-06-18 20:52:12 | 被災地ボランティア
6月12日、早朝ジョギングしてカッパ淵まで行こうとしましたが、小雨が降り出したので少し街のほうに戻って農道を走りました。農家の脇の囲いで親子の馬が草を食んでいました。カメラを構えると少し近づいてきましたが、餌をもらえないと分かったのでしょう、離れていきました。親馬は子馬をかばうように動いています。

 


遠野の野原などに咲いている帰化植物と日本古来の花を写真で紹介します。


 
今日は長部のコミュニティーセンターで朝の10時から昼食をはさんで4時までやる予定です。車を運転して連れて行ってくれたのは昨日の島田さんと同じく陸前高田でコーディネーターをしている吉川さん、もう一人高橋君、かれは釜石中心に活動していた人で、二人とも若く、継続して活動しています。


フクロナデシコ
 
10時に会場に着くとほとんどの人が先に来ていて机を並べていました。午前中はくずかごの縁作り、午後は六つ目編みのかごの底の部分を編みました。来月は六つ目かごの完成と薬玉作りをやる予定。
 
昨日の下の壷仮設で参加者の一人のハサミを私が間違えて持っていってしまったのを、今日島田さんが返しに行くところでしたが、ご本人が長部まで来て、ついでに昨日編んだかごを5セット譲って欲しいと言うことでした。
 
その人は積極的で、下の壷仮設ではかご編みの中心になってくれる人なので、ただで差し上げ、エムズファクトリーから貰っていた本も一冊差し上げました。長部の仮設にも中心になってくれる人がいて、前もってみんなで集まってテープを一緒にカットしています。

これは日本古来の花クリンソウ
 
まごころネットに帰ってから高橋君が自分でかごを編んでみたいyと言うので、夕食前に陰の部屋でかご編みをしました。このかごや薬玉は大槌町のカフェ隊のスタッフ何人かに教えています。いつ何がどんな形で役に立つか分かりませんから、覚えておいて損はないですよね。

これも在来種のオドリコソウ
 
遠野駅を10時に出発するバスに乗ろうといつものスタイル、背中に山用のリュック、片手にキャスター付きのトランクを引いて歩いていました。途中キャスターの具合が悪くなり河岸で調べていたら、車が止まって「駅まで乗っていきませんか」と言ってくれました。知らない青年ですが、車に乗って聞いてみると、まごころネットのスタッフでした。いつも足湯隊の井上さんの下で働いているということでした。
 
井上さんには私も日本財団の頃から教えを受け、現場でかご編みを始めることが出来たのは、足湯隊と一緒のときでした。今回下の壷仮設を紹介してくれたのも井上さんでした。
 
前にも書きましたが井上さんは阪神淡路大震災のときから足湯に参加して活動し、以来災害が起こるたびに足湯をやって、東北でも当初から活動しています。筋金入りのボランティアです。その青年は井上さんのことを尊敬しているといっていました。井上さんは私より若いと思いますが、すごい人です。
 
10月ごろは足湯隊に入ってかご作りをやっていましたが、基本的に目的が違います。そんなことから今は足湯隊とは別になっていますが、井上さんはしっかりした頼りになる人です。これからもお世話になるでしょう。

こんないい人たちとの出会いがあるのも、活動を続けているからです。継続は力なり、そんなことを感じています。

被災地にて、生まれた場所に立つ。

2012-06-17 08:14:24 | 被災地ボランティア
11日は陸前高田市竹駒町の下壷仮設の集会所でかご編みをやりました。ここは20戸ほどの仮設で最近やっと集会所が出来ました。
 
連れて行ってくれたのは先月も同行した陸前高田担当の島田さん、一緒にカナダのトロントから来たギャロウェイさん、この人は日本人でカナダ人と結婚してお子さんもいますが、里帰りのついでにボランティア活動を数ヶ月やっています。出発前にかご作りの練習をやったので、お手伝いしてもらいました。参加者は来月もやりたいというので、継続してやることになりました。
 
陸前高田だと言葉が同じなので、古い言い回しを使ってみんなの笑いをとったりします。私は明治5年生まれの祖母に育てられたので、今若い人には使われなくなった言葉も知っています。ウザネハイテ(苦労して)とか、あっとうであ(ああ尊い、拝むときの言葉)
 
集まったのは8人、スムーズに進行したので残りの時間はアコーディオンで歌を歌いました。帰りに島田さんにお願いして、私が生まれた場所に行きました。以前遠くから見たことはありますが、そばに行ってそこに立つのは初めてです。
 
生まれた家は震災前にとうに無くなっていますが、そのあたり一帯は土台も片付けられ、昔を思うよすがもありません。
 
家からそばの階段を登るとすぐ昔の町役場の跡があります。そこまで津波が来て土台だけが残っていました。

もう少し階段を上がると天照御祖(あまてらすみおや)神社があります。ここは無事でした。


さらに上がると広い原っぱに出ます。そこに日清日露の戦没者を祀った忠魂碑があります。

この辺り一帯が小さい頃の遊び場で、途中の石段のそばの杉の木に開いたうろには狸の目が光っているといって脅かされていました。そのうろは今見ると小さくてリスならいるかもしれません。
 

地図で見るとここは本丸と言う地名です。ネットで調べると室町時代の城跡のようで、子供時代はそんなことは全く知りませんでした。
 
ついでに近くの高田小学校にも行ってきました。途中にあったヤマニ醤油は土台しかなくなっていましたが、小学校に通う途中にあった浄土寺は一部修理して残っています。

小学校1年の終わりまでいた高田小学校は一階を津波に襲われましたが、生徒達は2階に逃げて全員無事でした。ボランティアの活動もあってその4月から授業を再開しています。津波をかぶった場所なので校庭に仮設住宅が建つことは無く、近くの一中の生徒達もクラブ活動をしに来ていました。
 

跡形も無くなったヤマニ醤油も営業を再開しているようです。
 
忠魂碑のあたりは緑が鮮やかで、高田に来てやっと自然に出会えたような気がしました。
 

被災地にて、大船渡のみなし仮設その2

2012-06-16 19:21:57 | 被災地ボランティア
6月10日はやはり大船渡のみなし仮設、雇用促進住宅での活動です。
この日も昨日と同じショッピングセンターで昼食を食べ、
時間があったので盛駅の駅舎を見に行きました。
 
ここは大船渡線と南三陸鉄道がそれぞれ始発駅になっています。
JR大船渡線は気仙沼までは開通していますが、そこから陸前高田、大船渡までは津波で線路も駅舎もずたずたになって、開通の見込みが立っていません。

 
駅舎に貼られた写真より

南北の三陸鉄道は回復しつつあり、二年後には盛から釜石までの南三陸鉄道、宮古から久慈までの北三陸鉄道が全通します。でも釜石と宮古を結ぶJR山田線も開通の見込みが立っていません。


三陸鉄道の盛駅ではNPOが観光センターをオープンさせ、地元産品を売ったりして宣伝に努めています。駅構内の貨車には応援ありがとうの文字が見えます。


客車が一台ホームに止まっていて、時々喫茶室やカラオケルームになって地元の人を楽しませています。



 
三陸沿岸では仙台から宮古、さらに八戸へ続く三陸縦貫自動車道の建設が進んでおり、一部開通していて災害復旧にも利用されました。昨年の5月に陸前高田に行ったとき、山中で工事が進められているのを見てびっくりしました。三陸の人々や産業にとってはこちらも重要な交通路になります。
 
今回も雨の中のテント設営になりましたが、人の集まりはよく、アコーディオン伴奏で歌ってからかご編みをやりました。作った人は15人、一人では大変ですが、一緒に行ったスタッフが手伝ってくれて無事終わりました。
 
リーダーは私より年上の男性、11月から遠野にきて大船渡のカフェ隊で活躍しています。前にも会ったことがあり、これから時々一緒に行動することになるでしょう。

 

もう一人静岡県清水市から来た私より3歳年上の男性がいます。この人は60歳で停年になってから地元でさまざまなボランティア活動を続けているそうです。自分の山小屋を持っていて花や小鳥などの自然に精しい人です。今回は車の運転をしてもらっていますが、何事にも積極的で、雨中のテント設営には雨が降りこまないよういろいろ工夫をして、大活躍でした。多くの人のお世話になりながらかご編みを続けています。