竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

夏まっさかり、旅先で買ったかご。

2012-07-24 12:01:38 | エコクラフトの籠編み
いよいよ本格的な夏、と思ったら急に涼しくなったりしています。
ことしの夏はエルニーニョ現象で涼しくなるとか、
そうなれば電力も不足気味だしちょうど良い夏なのかもしれません。

 
18日朝から掛川に来ています。帰るのは26日夜、
教室もありますが、久しぶりにのんびりした日々を過ごしています。

 
11月から竹細工の教室も開くことになりました。
定年後の趣味のために定年前から習っておきたいと言う男性、
その友達で男性が作った材料でかごを編みたい女性、
フラワーアレンジメントをやっていて、竹その他の編組品をアレンジメントに使いたい女性、
いろいろな人がいます。

 
今やっていることはバリ旅行で買ってきた編組品を編んでみること。
お皿カバーはクラフトテープで編んでいますが、基本的な造型の原理は分かりました。
これも本当によく工夫されています。

チダケサシ

もう一つの課題、プナン族の背負いかごは見れば見るほどよく出来ています。
編み始めは底からでしょうが、とても複雑に出来ていて、
完成までにはかなり時間がかかりそうです。
 
もしこれが編めれば、11月に格安航空券を利用して長男一家がいるクアラルンプール経由で、ボルネオサラワク州のクチンまで行って見ます。別なデザインの背負いかごを買いたいのです。
 
編めなければ行っても無駄でしょうね。その時は諦めます。

ウツボグサ
 
東南アジアのかごを編めたところで、日本で売れる竹製品を作れるとは限らないのが辛いところです。でも売ることは度外視して面白いものを作りたいと思います。それが歳をとったよさですね。自分の身の始末が出来れば良し、後は自由です。

ヤブカンゾウ
 
写真は今現在のジョギングコースの花、ホタルブクロ、ウツボグサは先月も咲いていました。
 
 

被災地の夏 かごを編むこと

2012-07-20 17:56:08 | 被災地ボランティア
7月13、14、15日と岩手に行って来ました。
いつもより一日少なかったので、少し楽でした。
バリ島旅行の疲れもまだ残っていたので、ちょうどいいところでした。

 
13日は下壷仮設の集会所、14日は大船渡のみなし仮設の雇用促進住宅、
15日は長部のコミュニティーセンター。
 
初日だけ天気が良くて後は雨模様でしたが、今回はどこも集会所だったので、雨も気にならずにすみました。

 
長部でのかご編みは六つ目かごです。これは簡単なようでいて結構難しく、この日一緒に行ってくれるスタッフとボランティアの3人に、前もって編み方の練習をしておきました。でもその場になると、忘れてしまって苦労が多かったようです。一緒に行った人たち、ご苦労様でした。

 
かご編みって簡単なようでいて結構難しく、ボランティアの人たちも関心を持って、参加させてくれという要望があります。車に乗れる人数の関係で、お断りすることもあります。私はボランティアの人たちも、関心があれば編むことを覚えて欲しいと思います。それに協力することも私の仕事だと思っています。

ナナカマド
 
編むことは人類と共に古くからある技術です。最も原始的な暮らしをしている人たちが、素晴らしい編む技術を持っています。サラワクのプナン族もそうですし、南米コロンビアのデサナ族もそうです。

セイヨウノコギリソウ

未曾有の大災害から立ち上がるためには、人間の原初からの活動を体験することで、力を得られるかも知れません。とまあ、そんな夢のようなことを思ったりしています。
 

バリ島旅日記 その8 楽園よさようなら。

2012-07-10 11:23:34 | 旅行
6月30日(土) 6時少し前に起きました。日曜の夕方に来てからほぼ一週間、楽しい日々でした。
東南アジアでの一人旅には不安がありました。でもやってみると気楽に日々を過ごせました。バリ島、ウブドという観光で売ってきた場所を選んだのも良かったでしょうね。特にウブドは微笑みの世界、昨夜も宿に帰る途中、オートバイに二人乗りした若い女性たちに「コンニチワー」と声をかけられました。明るい笑顔、別に何を売りつけっようとするのではなく、ただの挨拶です。年寄は警戒されないから得ですね。
 
今朝の朝食(ミ・ゴレン、焼きそば)の皿の上にもちょっと違う編み方の籠が載っていました。宿に申し出てわけてもらいました。これはよく見るとPPテープで編んであります。

 
今回の旅で編むことが一層面白くなってきました.鶏かごの六つ目編みでも編み始めのやり方が、私が見た範囲だけで3種類ありました。世界中ではもっといろいろあるでしょう。フィリピン、ベトナム、タイ・・・
 
先日空港に行くシャトルバスの切符売りのおばさんは、9時スタートだけれど8時半に来るように言いました。8時半にきても別にすることもありません。椅子を出してもらって、街を眺めていました。


やってきたバスはマイクロバスの小さいもので定員は10人ほど、みんな大荷物を抱えているので後ろにぎゅう詰めです。
 
欧米人がほとんどで、私と私の隣に坐った娘だけ東洋人です。彼女はバリ島出身で今はシンガポールの大学に通っていて2年目、その前は上海の学校に3年通っていたそうです。インテリアデザインを学んでいるそうです。故郷はウブドではないのでウブドとロンボク島に遊びに来たそうです。一人であちこち飛びまわる元気な娘です。
 
旅の話になって、私はボルネオのマレーシア領サラワク州の採集狩猟民プナン族に関心を持っているというと、彼女は少しプナン族の言葉を知っていると言います。彼女のお父さんの仕事の関係で、ボルネオのインドネシア領カリマンタンに住んだことがあり、そこで覚えたと言います。私の語彙不足からそれ以上の情報は得られませんでした。
 
プナン族は狩猟採集民だったから国境など関係なくインドネシア側にも行ったのでしょう。今はどんな暮らしをしているのか、周辺の焼き畑農耕の定住民イバン族のように、ロングハウスにホームステイさせているなんてことはないでしょう。私は彼等の生活に関心があるわけじゃなく、彼等の編む籠が面白いので、籠が手に入れられればとりあえずは十分です。
 
バスの窓からKARAOKEの看板が見えました。彼女にカラオケはやるかと聞いたら、やるやる、先日友達と6時間歌い続けたと言っていました。私はインドネシアの歌では「ブンガワンソロ」だけ知っているというと、彼女も日本の歌を口ずさみました。安全地帯の歌だったか。テレサテンは知っていて「時の流れに身をまかせ」を口ずさんでいました。
 
歌もカラオケも国境を越えて広がっているので話題にはちょうど良いのです。もうちょっと言葉が出来ればね。
 
空港で彼女と別れマレーシア航空の窓口へ。荷物も手荷物として機内に持ち込めました。空港内をぶらぶら歩いていると見知った顔があります。昨日宿で話したバンコクから来た夫婦です。そばに坐ってしばらく話しました。奥さんは勤め人、スペイン人の御主人はスペイン料理のレストランをやっているそうです。ちょうど日本から母親が来ているので、子供を預けて結婚記念の旅に来たのだそうです。バンコクは東南アジアならどこでも行きやすい場所です。多くの日本人が外国で暮らしています。
 
旅人の私は外国人と結婚している日本女性二人と知り合いました。どちらも元気がよく、とても社交的で素敵な人でした。もう英語ぐらいはスラスラ喋れて、一人でどんどん行動する時代ですね。

クアラルンプールのツィンタワー、一本に見えます。

遠野に来ているボランティアさん達も、若い人たちは英語がぺらぺらの人が多いようです。そんな人たちを見ていると普通の日本社会がちょっとガラパゴス化しているのかなと思います。
 
飛行機はやはり満員、また通路側です。クアラルンプールまでは3時間の飛行です。普通考えれば、少し航空運賃が安いからと言って、クアラルンプールで一泊するような旅は馬鹿げています。でも苦労することで経験を積めるし、一晩だけでもチャイナタウンを歩くことが出来ます。元気な今のうちだけのことです。
 
隣の男女のグループが情報タブレットを持っていろいろ見ています。次に来るときには私もアイパッドか何か持ってくることになるかもしれません。
 
いまや世界でもっとも原始的な仕事を持って、アイパッドで情報を得ながら旅をする、面白い時代になってきましたね。
 
百代の 過客空飛ぶ 夏の旅
 
無事クアラルンプール空港着、入国手続きはビザナシなので簡単、KLIAエクスプレスに乗ってセントラル駅へ、そこで別な電車プトラLRTに乗り換えて一つ目のパサール・スニ駅で降ります。

プトラLRT



あたりはチャイナタウンで宿もすぐ見つかりました。1泊1100円ほどの安宿、トイレバス共用、でも一応クーラーつきの個室です。

 
荷物を部屋に置いて歩いてすぐのセントラルマーケットへ。大きなビルの1、2階に様々な衣料、工芸の店が並んでいます。

 
そこで念願のプナン族の背負い籠を見つけました。値札は100リンギット(1リンギット26円)でした。ちょうど全品30%引きに立っていたので70リンギット、もう少し安くならないかと聞いたら、駄目。ここはもう正価のある世界です。他の店でも一輪挿しに出来るようなプナン族の小さな籠があったのでそれも買いました。


籠の内側

 
正価があるところは安心して買えます。家族への土産と、自分には絹の長袖シャツの裏地つきのを買いました。
 
夕食はマレーシア式の食堂で。大きな食堂の周囲に小さな料理の店が並んでいて、自分で気に入りの店に行って料理を買い、中央の椅子とテーブルの場所で食べます。



鶏肉入りのビーフンスープを買い、別な店で黄梨ジュースを買いました。黄梨?英語ではパイナップル、なーんだ。東南アジアの食べ物は何でも口に合います。一度もお腹を壊しませんでした。

 
宿に戻ったら外で太鼓の音が聞こえます。夜遅くなってからチャイナタウンを歩きたくないのでそのまま寝てしまいました。
 
今日一日あまり歩きませんでしたが緊張した一日でした。パラダイスから現実に戻りつつあります。
 
さて、家に戻ってみると、長男はマレーシアに行くことになりました。試験を受けていたフィンランド系の企業向けのセキュリティーソフト会社に採用されました。日本にも支社はあるようですがアジア展開の中心はクアラルンプールで、そこの技術サポート要員として採用されたようです。8月1日から働くということで今月末には旅立ちます。住まいが決まってから少し遅れて家族も行くようです。
 
息子のところに泊まらなくても安い宿はいくらでもありますから、孫の顔を見ると言う口実でまた行くことになるでしょう。そこから今度はどこに行きましょうか。
 

バリ島旅日記 その7 竹籠屋

2012-07-09 16:05:18 | 旅行
6月29日、9時の朝食までには時間があるので、外に散歩に出ました。前に見かけた籠屋に行って見ました。籠屋の主人は感じのいい人で、写真を自由に撮らせてくれました。四方網代の大きな蓋つき籠、六つ目の鶏かご、軍鶏を運ぶ籠、びくなど漁に使う籠などいろいろありました。





太い竹を開いた石箕(いしみ)のような塵取がありました。感心して見ていると、これもバンブー、と言いながら同じ作りの帽子を出してくれました。雨よけの傘みたいです。
 
何か買いたかったのですが大きいものばかりで持って帰れません。小さな手作りお菓子屋もやっていたので、お米を四角く固めたお菓子とラップに包まれた餅菓子のようなものを買いました。どちらもおいしかった。2つで20円ぐらい、これなら100円もあれば昼食に十分ですね。
 
裏に通じる脇道があったのでその道を行くと、男が川の石の上で洗濯をやっていました。道端に竹のきれっぱしが何本か転がっていました。切って間もないもので、運びやすそうなものを拾いました。
 

こういう田舎道をてくてく歩くのが本当の旅なのでしょう。案内書に載っている散歩道はきれいだけど、あまり発見がありません。
 
見知らぬ道を歩くには言葉が重要です。若い人たちはかなり英語を知っているので道に迷っても困ることはありませんが、話を聞くためにはインドネシア語をある程度話せなければなりません。
 
竹細工は東南アジアのいたるところにあります。中国系の竹細工にはあまり魅力を感じません。むしろ原住民系、古マレー語族系の竹細工や籐細工に惹かれています。マレーシアのボルネオ島サラワク州も行ってみたいところです。
 
帰りにクアラルンプールを経由し、チャイナタウンで一泊するので、その近くのセントラルマーケットでサラワク州の籠と出会えるかもしれません。
 
旅に出ていると自分が若者に戻ったような気がします。鏡を見るとがっかりしますが。私はもともと年甲斐のない人間、中身はあんまり大人じゃありません。
 
今日の予定は一昨日韓国女性と歩いた道がとっても良かったので、もう一回歩くこと、孫達へのお土産を買うこと。これって一番難しいことです。
 
夜は王宮でバロンダンスを見ます。初めて魔女ランダを見ることになります。
 
朝食の席で、隣のテーブルに日本人らしい女性が坐ったので話しかけてみると、やはり日本人、バンコクに住んでいて二泊でウブドに来ているそうです。旦那さんは静かな感じのスペイン人、彼女は明るく元気なタイプです。日本女性と結婚したり日本に関心を持ったりする人はマッチョなタイプはあまりいないようです。どちらかというとシャイな知的な感じですね。

朝食を摂るテーブル
 
ウブドに来る前に行ったロンボク島のビーチでは、物売りにまとわりつかれて、追い払うのに苦労した、と言っていました。昨日の葬式のときのようにおばさんたちに囲まれるのは私は面白かったけれどね。
 
空港でタクシーを捕まえて普通の料金に交渉するのも疲れたと言っていました。なんでも交渉によって値段が決まるのは面倒です。観光客と見ればふっかけてくるのでね。でも町の中を走っているのがほとんど日本車です。日本人は彼等のおかげで太っている面もあるので、少々高くてもまんぞくしなくちゃね。私の値切り癖は趣味です。
 
どんなところが良かったかと聞かれて、今日歩くつもりのコースを紹介しました。行って見ると言っていました。
 
宿を出てウブドの街を通り抜け、散歩道に出ます。そのスタート地点にグヌン・ルバ寺院があります。扉は閉まっているので中には入れません。ウブドに人が住み始めた由来のある寺院だそうです。

 
その脇を通って登り道を抜け、風が渡る尾根道に出ます。



まだ人が歩いていないせいか、道端に大きなトカゲがいました。30cmぐらい。蝶もいるし、いろいろな花が咲いています。

 
自動車道に入るところで引き返し、また尾根道を通ります。草原で真っ白い服を着た男女が、草原を走るようなポーズで写真を撮られていました。カメラマン2人、助手1人というグループです。結婚記念のアルバムに入れる写真でしょう。息子夫婦もマレーシアで立派な結婚写真集を作ってもらっていました。別れる時はどうするんでしょう。

 
今日は暑い。田圃が見えるカフェで一休み、バリ式アイスコーヒーを頼みました。コーヒーを飲みながら日記を書いたりするのは至福の時間です。
 
異国の田 ひばりも鳴かず 夏たけぬ
 
ツバメ舞い 異国の谷に 風渡る
 
生も死も 一瞬のごと トカゲ行く
 
街に戻ると裏道散歩、中心街より良質の店が多いようです。長く住む外国人が多いので、ギャラリーやしゃれた店が多いのでしょう。でも私には縁がありませんね。




 
普通の家(お金持ち?)の門と門の脇の石像群

宮廷の入り口で今夜のダンスの切符を買いました。中で休んでいると次々に日本人のツアー客がバリ人のガイドに導かれてやってきます。一人旅だと自分の写真を撮る機会があまりないので、二人連れの日本女性にシャッターを押してもらい、ついでに二人のカメラのシャッターも押しました。

 
市場では上の孫達にはキラキラした腕輪、下の孫達には紐を引っ張れば動くおもちゃを買いました。料理を載せた皿の上にかぶせる蝿よけのカバーの編み籠も見つけたので、二枚買いました。材質は軟らかい草のようで、クラフトテープで編めるかもしれません。
 

会場に行くと椅子を並べ始めていました。いつものように中央に陣取ります。今夜も日本人ツアー客が多いようです。左隣は日本人の男女、立派なカメラを持っています。前は車をいじるのが好きだったけど今はカメラになったそうです。でもサークルに入っているわけでもないし個展をしたいわけでもない、ただ面白い写真を撮りたいだけだそうです。奥さんとは共稼ぎ、奥さんは派遣で、辞めたがっているけど、勤めているからこそこうして旅行に来れる言っていました。
 
右隣は中国系のツアー客の一人で太ったおばさん、ちょっと話しかけてみると英語が全く通じません。チャイニーズ?と聞いても分かりません。マレーシア?と聞くとやっと国名を聞かれていると分かったらしく、台湾と答えました。自分を指差してジャパンと言っても分かりません。イルボンは朝鮮語だっけ。やっとジーポンと言って自分で納得していました。中国語のジーポンからジャパンが生まれたんでしょうね。
 
バロンダンスは善なるもの聖獣バロンと悪の代表魔女ランダの戦いをあらわしています。

聖獣バロン

魔女ランダ

戦いの決着はつかず、今でも闘われています。

明日は早いので踊りの後急いで宿に戻りました。

バリ島旅日記 その6 ウブドのお葬式

2012-07-08 17:28:04 | 旅行
6月28日(木) 今日は観光案内所で聞いた祭りのある日。一昨日宿の近くのプーラ・ダーラム(昨夜の場所とは別)に行ったとき、人が集まって何か祭りの準備のようなことをしていたので、観光案内所で聞いたら、この日の12時に始まると教えてくれたのでした。
 
街に出ている乞食について宿の青年に聞いても話が通じません。そういうカースト?これからは小銭を持ったらあげるつもりです。
 
街に出るとすぐそんな女性に出会いました。裸足の2、3歳の子供を連れています。すぐ小銭を渡すと、子供はニコニコしてとても可愛い。
 
今日の12時から祭礼があるというプーラ・ダーラムに行くと、回りにいたおばさん達が寄ってきて、祭りを見るのに必要な腰に巻く布サルーンを売りつけようとします。値段を聞くと100000と言うので半分に値切りました。すると腰紐や頭に巻く鉢巻も売りつけようとします。結局700円ほど使いました。何に使うのか馬や牛の屋台のようなものがいくつも置かれています。



 

まだ時間があるので街に出ました。早めの昼食は豚の丸焼きで有名なイブオカというワルン(地元の人のための食堂)で摂りました。ナシ・チャンプルーを注文し、食べたら豚肉が軟らかくておいしかった。
 
市場に行って地味な竹籠を二つ買いました。一つは底が四角で上は開いて丸くなり。丸い蓋がついた典型的な東南アジアの竹籠、もう一つは四方網代編みの蓋つきの小型の無彩色のかご。これのもっと大きくて彩色してある籠を女性たちが頭に載せて供え物を運ぶのに使っています。
 


11時半にプーラ・ダラムに戻りました。これはお葬式だということが分かってきました。お供え物を頭に載せた女性たちが集まってきています。


その内群集が動き出しました。初めに大きな飾り物がいっぱいついた御輿を担いだ男達が、広場の左側の草むらに据えます。これはもう一台が続きます。


それから大きな怪物の御輿と牛の御輿が続いて据えられます。


動物の背中が開かれ、その中に死者の体を入れた発泡スチロールの箱や供え物が入れられます


人々が香を供えた後、牛と怪物の御輿に火が付けられます。死者の写真が飾られた二台の御輿にも火が付けられます。


 
それぞれが燃え尽きると葬式が終わります。すると次の飾り御輿と動物御輿が運び込まれます。今日はお葬式が集中して行われる日なんですね。
 
外国の観光客もサルンや帯を巻いたり鉢巻をして写真を撮りまくっています。
死者の一族の中に可愛い女の子がいたので写真を撮らせてもらいました。


プロのカメラマンのような欧米人もいて、彼女達の写真を撮っては彼女達に見せています。地元の人たちに融け込むうまいやり方です。

 
後ろから日本人ですか?と声をかけられました。
中年のバリ島の男がにこやかに話しかけてきます。
私の鉢巻の仕方がおかしいと言って直してくれました。

 
彼は日本語を勉強中、歳は45歳、自分はかって小さい店を日本語を覚えた、今は農業をやっているとか。二人で日陰の石に腰かけて話し込みました。今回のような正式な葬式は50万円、略式だと10万円はかかる、これはインドネシアでは大変な金額です。親類縁者、近所の共同体も加わりそれぞれにお金がかかれいます。そんな中で助け合いの精神が保たれているのでしょう。
 
日本でもかって田舎ではお葬式は葬儀屋が入らず、共同体葬でした。今から40年近く前の石見銀山でのことです。近所の人たちはまるまる2日仕事を休んで葬儀を執り行いました。
 
彼の家の裏にも10万ルピアぐらいの宿があるので、今度来るときは電話してください、と言って名刺もくれました。親切で優しい人です。今度来るときは電話する、と言って握手して別れました。
 
寺院の入り口には今朝私を取り囲んだおばさん達がいて、笑いかけて手を振ってくれました。
 
さてこれからどこへ行くか、本にはモンキーフォレストを抜けて田園地帯を通り、またウブドに戻る道が書いてあります。その道を行くことにしました。レストランや工芸品の店が並ぶ通りを抜けてモンキーフォレストの入り口へ。ここは森の中に猿達が住んで自由に歩いたり木に登ったりしています。

 
入り口で手荷物に気をつけて下さい、猿がひったくることがあると注意されました。しばらく猿達を眺め、反対側の南の門から出ようとしたら、二人の少女に声をかけられました。自分達は日本語を勉強しており、勉強の一環として日本人の旅行者にインタビューすることになっているので、答えてくれますか?と言うのです。勿論OK、石垣に腰かけて話を聞きます。するといつ来たか、どこのホテルにいるか、趣味は何か、とか初歩的な質問をします。
 
突然一人の少女がキャッと声を上げました。猿が何かをひったくっていったのです。それはボールの飾りが付いたオートバイの鍵でした。猿は近くでそれをかじっています。
逃げようとしませんが取ろうとすれば逃げるでしょう。少女は泣きそうになっています。
 
周りの人たちが気付いて門の警備員に連絡し、少しはなれていった猿から取り返してくれました。少女達から少し離れて若い男が立っていましたが、それが先生なのでしょう。バリの人々は勉強熱心ですね。

 
公園を出て少し歩くと田園地帯を通る道に入ります。畦道に入ると地元の人しかいなくて、時々笑顔で挨拶を交わします。スラマト・シアンとか言う必要も無くて、手を上げてヤーでいいのです。ここでは若い人ほど愛想が良くて、年寄りほど難しい顔をしています。日本では若い人ほど愛想が悪いんじゃないかな。

 

昨日ジェゴグを聞いた寺の近くに出てそのまま街に入ります。途中のレストランで夕食、牛肉にカボチャのソースがかかっている、美味しい料理です。また1時間前に王宮に着いて見るとまだガラガラ、椅子が並べられると例のごとく前列中央に坐りました。日本人ツアー客が10人ほど来て、最前列に並びます。私の隣はツアーじゃない日本人の男女、旅行会社の手配旅行で空港の近くに泊まっているようです。車で1時間だから問題ないわけです。
 


今日の演目はレゴンダンスその他、鉦を叩きながら踊るトロンポンダンスもあります。これは女装した男性が色気たっぷりに踊るもの、です。とってもきれいでした。



バリ島旅日記その5 韓国人女性

2012-07-07 09:27:40 | 旅行
6月27日(水)目が覚めたら雨、でも7時を過ぎる頃にはやんでいました。昨日からお菓子や果物は解禁、毎日しっかり歩いているのだから仕方がありません。日本に帰ってから糖類制限法をしっかり守りましょう。
朝食はミ・ゴレン、ミは麺、ゴレンは焼くという調理法、焼きそばです。その上に目玉焼きがのっています。これも代表的な料理の一つです。
 
宿のオーナーの女性が出てきて、私は画家だと自己紹介しました。自分が描いた絵を見てくれといって脇の机の上にB5サイズの絵を何枚も並べます。版画風だが細かい絵だから手書きだろう。カラーの農村風景や神話物語の絵、白黒の二人の女性のレゴンダンスの絵もあります。日本の友人にもこんな細密画を描く人がいます。しきりに勧めるが値段の見当がつきません。値段によっては買ってもいいと思うのでレゴンダンスのイ絵を聞いてみると150000ルピア、1300円ほど、そこで交渉して100000ルピア、800円ほどで買いました。でも街を歩いてギャラリーの似たような絵の値段を見るとそんなものです。もそもそももっと安いのかも。

 
今回の旅では値段のやり取りが楽しみの一つです。買い物は楽しんでやらなくちゃね。本当に必要なものなんてないんだもの。
 
時間がすぐすぎてしまい約束の10時が近づいて来たので、街に出て宮殿に急ぎます。門の前にきたらこちらに手を振っている女性がいます。一昨夜は薄暗い中で会ったので顔はよく覚えていません。30代かと思ったけど違うようです。でも笑顔で明るい雰囲気は同じです。
 
後になって私の歳を答えてから彼女の歳を聞いたら54歳だそうです。私の女性の歳の見当は最近いつも大はずれ。そんなに若い人が私の相手をするわけも無いしね。
 

どこで教えているか聞くと彼女は大学の先生でした。韓国の古典文学を研究する上で日本の研究書を読む必要があり、日本語を勉強して日本の本は沢山読んだそうです。でも話すほうは駄目、まるで私の英語と同じです。彼女は19世紀の英文学にも関心があり、私の好きなジェイン・オースチンも好きなようでした。

 
歴史の話もいろいろやりました。日本の古代史についての私の持論(と言っても特別なものじゃなく江上波夫の騎馬民族説系の話)、日本の古代史は渡来人によって開かれたこと、関東平野も帰化人によって開拓されたし、東北征伐も帰化人の力が大きかったこと(坂の上の田村麻呂は東の漢氏の一族)、天皇家も勿論韓国系と思われることなどを話しました。これは韓国古代史では常識のようですが、日本人の口から聞くのは初めてだといっていました。
 
神功皇后の朝鮮征伐とか白村江の戦いとかもそうだが、武蔵国分寺近くに残る東山道の遺構を見ると、弥生時代から発展した大和朝廷が作ったものとはとても思えません。初めから帝国を作る意図を持って作っている。彼等の頭には初めから中華帝国のイメージがあるのです。
 
日本と韓国の間には認識上のギャップがいろいろあります。でもかなり似てきているようです。日本では青年が外国に出たがらなくなってきていると言います。山に登るのもマラソンを走るのも中高年が中心、唯一例外は若い女性たちで、山ガール、マラソンを走る女性、歴史に関心を持つ女性がどんどん増えています。女性のほうが元気があるようです。

 
韓国にもにたような傾向があるようです。韓国では農村の独身男性に東南アジアから沢山お嫁さんが来ているようです。彼女たちは自分達の習慣に固執して韓国式に馴染まないという問題が生じているとか。

 
日本でも本格的に東南アジアから女性を引き込まなければ、山村は滅びてしまいます。日本全体が外国人をもっと受け入れなければなりません。それには中国人より東南アジア人の方がいいでようです。今度の旅でも現地の人や欧米人とは目が合えば微笑を交わし軽く挨拶を交わします。でも中国系の人は目をそらします。民族性の違いなのか、もっとも日本人も愛想が悪いですね。私はちょっと例外、もともと外れ者ですから。
 
私は韓国の歌も好きだといって、別離(イビョル)を韓国語で歌うと韓国語の発音がとても良いとびっくりしていました。昔々ラジオの韓国語講座で半年勉強したことがあります。もうすっかり忘れてしまいましたが。道を歩きながらアリランをちょっと韓国語で歌うと、彼女は美空ひばりの「リンゴのふるさとは北国のはて・・・」と歌いました。後の歌詞は忘れたとか。良い声なので一緒にカラオケでも行けば良いのですが、カラオケ店はウブドには無いようです。あったとしても日本語の歌と韓国語の歌は無いでしょうね。
 
途中の風通しのよいレストランで昼食、彼女は昨日のブサキ寺院ツアーでお腹をこわしたそうで椰子の実ジュースだけを飲んでいました。

 
途中の村で子供達がガムランを練習していました。指導者の大人は間違いを厳しく指摘しています。帰りに同じ場所を通るともっと人が集まって本格的に合奏していました。祭りが近いのでしょうか。

 
この道は深い谷を見下ろす尾根道で、広い野原もあり、昔から欧米の画家たちに愛された散歩道としてウブドで一番有名な散歩道のようです。そんな人達が住み着いたせいか、ギャラリーがあちこちにあり、今朝私が買ったような絵も並んでいます。
 
街に戻ってから彼女とメールアドレスを交換して握手して別れました。彼女は明日故国に帰ります。小雨模様の日なので来ないと思ったのに来てくれました。最後の日に私に付き合ってくれてありがとう。
 
今夜もウブド王宮での踊りを見るつもりだったが、今朝散歩したコースの入り口近くにプーラ・ダーラム・ウブドという死者を祀る寺があり、そこで竹琴によるジェゴグの演奏と踊りがあるという看板があったので、こちらを見ることにしました。

 
バリ島に来る前に読みかけた中村雄二郎の「魔女ランダ考」のなかに魔女ランダが支配する寺としてプーラ・ダーラムが出てきた。ここは葬式が行われる寺で、いつもはひっそりしています。ジェゴグのCDを買った翌日になま演奏を聴けるのは運がいいですね。
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魔女ランダの像
 
早めに正面の席に着いたら、隣の席に日本人の男女が坐りました。青年はバリ島にきて三日目、女性は20年バリ島に住んでいるそうです。青年は親類かもしれません。夫はインドネシア人(バリ人ではない)子供もいるとのことでした。
 
バリに来て張り人と結婚する日本女性が多いが、離婚する人も多いそうです。結婚は二人が愛し合えば良いように思われがちだが、ここでは古い共同体意識が残っており、毎朝神や悪霊に供物をささげ、親戚や近所の相互扶助活動も多く、とても二人きりの世界なんてありえません。日本で絆をうるさがって出てきた女性たちがうまくやれるわけが無いのです。
 
私の知人の娘さんも日本に留学してきたバリの男性と結婚し、子供も出来たけれど、バリに帰って間もなく離婚して、子供を連れて日本に帰ってきました。
バリ島全体では3000人ほど日本人が暮らしていて、定年退職者や工芸や踊りを習って滞在している人を含めるとその倍になるそうな。
 
かっては旅行者では日本人が一番多かったが、今ではロシア人、台湾人、韓国人、オーストラリア人が多くて日本人は5番目とか。
 
この人は明るくて話が上手で、とても素敵な女性でした。歳は?分かりませんね。今日の観客は少なくて20人ほど。街からちょっと離れていてツアー客も来ないのです。初めは竹琴によるガムランの演奏のみ。その後若い踊り手たちが出てきてちょっとへたな踊り、最後に大人の女性二人によるレゴンダンスでおしまい。観客より出演者の方が多いのは気の毒でした。
 


終わってからジェゴグを自由に叩いていいというので太い方からだんだん細い方に順番に叩きました。小さいものは音が澄んで表情に変化が出やすく、静岡に帰ったら作って見たくなりました。


裏から見たところ。

小雨が振り出したので急いで宿に帰りました。
 

バリ島旅日記その4 ウブドの乞食

2012-07-06 22:37:36 | 旅行
6月26日、朝食は9時、インドネシア風のクレープ、量は少ないけれど美味しい。間もなく欧米人の青年が来たので、どこから?と訪ねると、ドイツのミュンヘン、学生かと聞くとまだ独身でファーマーと答えました。農夫かと思ったらメディスンがどうとか言っています。ファーマシー、製薬会社のようです。ドクターか?と聞くとイエス。ゆっくり話したかったけれども今日は一番長いコースを歩く予定なのでそうもしていられません。宿の中庭の池の睡蓮が咲き始めました。脇に小便小僧に似た像があります。

 

 

大きな神像がある交差点をウブド市街へ行く方向と逆の方向に曲がると、大きな竹籠の店がありました。観光客用ではなく地元の人のための店で、闘鶏用の六つ目籠や、私も持っている椰子の葉で編んだ鶏を運ぶ籠もありました。帰るころにまた来て見ましょう。

 
道は田圃の中を通り、バイクも通らない細い畦道になりました。畦道の脇には小さな石灯籠のような社があります。家にも田圃にもあっていつもお供えをあげるのは大変ですね。
 



ところどころに凧が上がっています。バリの子供達は凧揚げが大好き、凧揚げの上手さが女の子を惹きつける元になっているとか。


直進する畦道は途中で消えて、右に左に畦道を移って前進します。前方に家並みが見えて来ました。もう大丈夫。家並みを抜けて自動車道路に入ります。石材や石造の店、家具店などがところどころにあります。

 


お昼は道端の地元の人のための食堂でナシ・チャンプルーを食べました。どこで食べてもそこそこ美味しい料理です。
 
そこから洞窟寺院ゴア・ガジャへ。入場券を買うとロングスカートのように足を隠す布サルンを貸してくれます。これで腰を巻くとバリ島の正装の簡略形になります。谷の方に降りていくと石の洞窟があって、中に神像が彫られています。

 
洞窟の番をしている青年が私を日本人と見て日本語で話しかけてきます。この神像は日本で言えば天神様の菅原道真、学問の神様で、11世紀頃の建造ということでした。

 
洞窟寺院を出るとまた道に迷いながら、石のレリーフがあるイェプルに行きました。11~14世紀の神々や当時の生活を描いた浮き彫りです。石のレリーフのそばにお婆さんがいて、花で水をかけてくれます。何か言ってるのはお賽銭を求めているのでしょう。50円ほどあげました。

 

戻る途中カフェがあったので一休み。そこでも青年が日本語で話しかけてきます。彼は欧米人夫婦のガイドをしてきたらしいのですが、せっせと私に話しかけてきます。次のガイドの相手を探しているのでしょう。明後日ブサキ寺院に行くなら、一人ではツアーに参加できないので私の車を使えばいい、一日4000円だと言います。その時は相乗りの人がいればツアーに参加できる、そちらは1400円ほどだから、そっちにしようと思いました。本当はタクシーの中から時々見かけた籠屋を見るには、車を使うしかないのです。それに気がついたのは彼と別れた後でした。けちな性分がこんなときに禍します。
 
そこからペジェン村までゆっくり歩き、直径160センチ、世界最大の銅鼓があるプナタラン・サシ寺院に行きました。その銅鼓は紀元前3世紀のドンソン文化の遺物だとか、そこでもサルーンを貸してもらって、寺院の中に入りました。
 

ペジェン村で道を左折、ウブドに向かいます。途中地元の若者からコンニチワと声をかけられます。どうして日本人と分かるんでしょうか。中国人はツアー客が多いから、一人でてくてく歩いたりしないのかもしれません。
 
観光案内所に行ってブサキ寺院ツアーについて聞くと、明日は催行するが明後日もその次も日もしないと言う。明日は韓国女性と会うので行けず、がっかりするがバリ島の宗教文化の研究に来ているのじゃないので、諦めました。土曜日に空港へ行くプラマ社のシャトルバスは12時発、とても飛行機には間に合いません。宿でタクシーを呼んでもらうしかないようです。これは2500円、バスなら500円、仕方がないね。
 
この日夜はやはり宮廷でレゴンダンス(宮廷女性の踊り)とバリス(戦士)のダンスがあります。時間がたっぷりあるのでスターバックの店に入り、久しぶりにフラパッチーノを飲みました。甘いものはいいですね。

 

店の向かいにCDを売っている店があります。昨日聞いた竹の木琴、リンディックのCD
が欲しくなって店で買いました。それとジェゴグという竹の木琴の合奏のCDもあったので買いました。旅行中なので中身を聞くことは出来ません。後のお楽しみ。
 
ウブドの街を歩いていると時々乞食に会います。やせこけた女が黙って手を差し出すだけ。子連れのこともあり、子供も手を差し出します。冬の無いところだからどこでも暮らせるでしょうが、ちょっと悲惨な光景です。でも見慣れれば当たり前になります。食べ物を地面に悪霊への奉げものとして供える習慣もあるので、そんなに困らないのかもしれません。
 
ウブドの道はゴミだらけです。ゴミ収集車もあるようですが、道端にはゴミがいっぱい。歩道も中心街を離れると穴だらけ。ぼんやり歩いていると危ないのです。そんなゴミも何も含めてウブドなのです。汚いものときれいなものが入り混じっています。
 

現代文明はそんなゴミや汚いものを隠して、いわば隔離してしまって清潔な世界を作り上げました。でも人間は常に汚いものを持っているし、作り出してもいます。それらはシステムによってうまく処理されています。
 
イギリスの田舎道にはゴミ一つ落ちていません。でもそこには村がありません。農業労働者の家があるだけで、農民の家がありません。ウブドでは家の周りに鶏やアヒルが放し飼いにされています。道も当然排泄物で汚れます。村にはがっちりした農村共同体があり、祭りも葬式も共同体が行います。東南アジアの米作地帯の特徴として日本もその中にはいっていました。
 
こういう場所って私達の気持ちを落ち着かせます。昔の故郷に帰ってきたような。バリ島が観光客に愛され、多くの移住者を生む由縁かもしれません。
 

バリ島旅日記 その3 ウブド 楽園の散歩道

2012-07-05 22:15:21 | 旅行
私がウブドを選んだ理由は、伝統文化が色濃く残っていること、
伝統芸能が盛んなためです。海岸のリゾートには全く関心が無いのでね。
 
出発直前に「バリ島ウブド 楽園の散歩道」という本が地球の歩き方シリーズにあることを知って、早速アマゾンに注文し、出発前日に届きました。
 
あの宿に6泊するので、踊りを6回見て、本に載っている散歩5コースをみんな歩くことが出来ます。でも1日はブサキ寺院に行きたいので、4コースになるはずです。
 
宿は6泊で2万円ほど、朝食つき。
朝食はアメリカンブレックファースト、コンチネンタルブレックファースト、インドネシア式に分かれ、私は勿論インドネシア式。それも お粥、焼き餅、焼き飯、焼きそばに分かれています。これを毎朝違えて注文します。
 
今朝はまずお粥、それにコーヒーとフルーツ、昨日日本人男性が坐っていたテーブルで食べます。
 
部屋に戻ってテラスで日記を書着ます。こんなにきれいなところでのんびり過ごす生活は初めて。テラスのすぐ前に石灯籠の形をした小さな祠(ほこら)があります。そこに中年の女性が供え物を持ってきて拝んでいます。聞くと毎朝やっているとのこと。

 
そばの地面にも地に住む悪霊に対しても供えています。朝は道路のあちこちに供え物が置いてあります。代表的な観光地だけれど、観光客向けではなくてバリ島の人々は本当に信心深いようです。

 
ウブド中心に向かう交差点の神像。

10時過ぎ宿を出て街へ。10分も歩けば王宮のある交差点に出ます。街は車やオートバイでひしめいています。王宮の向かいにパサール・ウブド(ウブド市場)があります。イカットやバティックなどの衣料、木彫、籠類の工芸品など、主として観光客向けの店がいっぱい並んでいます。野菜や果物の店もあります。その内ここで買い物をするつもりです。


 

 
本に載っていた、ウブド王宮からジャランカジェンの田園地帯に行く散歩コースに入ります。


初めは車の通る道だったのが、田圃が見えるあたりからオートバイだけが通れる道、そして人だけが通れる道になります。川沿いに人一人がやっと通れる道もあって、ちょっとスリリング。田圃にはあひるが遊んでいてとっても気持ちのいい道です。

 

見知らぬ花や蝶もいます。

川を渡って少し細い道を行くと、本に載っていたカフェがありました。そこでナシ・チャンプルー(ご飯といろいろなおかずのチャンポン、チャンプルーもチャンポンもいろいろ混ぜたものという意味です)を食べました。ここもテラス形式で風が通って気持ちよく、1時間ほどのんびりしました。
 
ウブドの街に戻ってから、プリルキサン美術館に入りました。ウブドは芸術活動が盛んで、いたるところに絵画のギャラリーがあります。20世紀の前半、ヨーロッパ人の画家達が住み着いて、バリの伝統絵画に大きな影響を与えました。バリダンスにもヨーロッパ人の演出の影響があるようです。
 
バリは伝統が生きているところです。生きているというのは新しいものの影響を受けて、今も変りつつあるということです。ケチャダンスが今の形になったのも20世紀になってからのこと、音楽も変っていきます。
 
美術館で古い絵画や新しい絵画を見て外に出ようとすると、入り口の脇で男が竹の筒で出来た木琴のようなものを演奏し始めました。のんびりして実にいいのです。近くの石に腰かけてしばらく聞きほれていました。ちょっと眠くなります。


 
美術館見学者は園内のカフェでお茶のサービスを受けられます。そこでオンデオンデというデザートを注文しました。ゴマダンゴとアイスクリームのセット、甘いものっておいしいね。
 

5時ごろ街のレストランに入って夕食。テラスの奥に広い池があり、その奥に舞台のようなものがあります。後で知ったのですが、ウォーターパレスというところでここでも毎晩バリダンスが演じられます。外から見ては分からない魅力的な店です。

レストランで使われていた鉄線編みのお盆。

 
ウォーターパレス

ウブドは基本的に欧米人のために作られた保養地です。バリの伝統を生かしてそれを楽しめるように作られており、いわゆる観光地の安っぽさが無いのです。
 
今日歩いた道にもFootpass(歩くための道)の標識がありました。私の持っている本も欧米の本の焼き直しみたいな気がします。
 
観光客も欧米系6割、中国系2割、日本人は1割いるかどうかです。
もっとも私は観光ルートを歩いてはいないので、全体の比率は分かりません。
 
今日見る予定の王宮でのダンスは7時半からなのでたっぷり時間があります。
市場でアタ細工のバッグを一つ買いました。値切って1500円ほど、何を買おうとしてもひどい値段を吹っかけてくるので、値切らなければなりません。いくらなら買うかと聞かれて答えるようだと、結局は買うことになります。うんと低い値段を言ってお互い値段を近づけて行きます。これって慣れてくると結構面白いですね。でも何でもかんでもそうだと疲れます。
 



王宮の中の王族の住む一角には入れません。


王宮に戻って1時間ほど開演を待ちます。席が並べられると最前列まん中に坐ります。すると英語で今何時ですか?ときかれました。30台?の女性です。時間を言って隣の席に誘うと来てくれました。彼女は韓国人、ウブドに4日間滞在するとか。

 

すると欧米人の青年が彼女の一つ隣に坐りました。どこから?と聞くとフランスからといいます。彼は日本語を結構しゃべれます。どこで習いました?と聞くと本で習った、でも日本には6回も行っている、日本文化が大好きだということでした。そこへ韓国女性とフランス青年の間の席に、坐っていいですか?と東洋人の女性が聞いてきました。
 
韓国女性がこれで韓国、日本、フランスと4カ国の人が集まりましたねと言うと、私は日本人ですといって、フランス人とどんどん話し始めました。私達は無視された感じで、もっぱら韓国女性と話しました。
 
彼女は学校の先生で韓国語と韓国文学を教えているそうです。
バリ島の人々は信仰心が厚いという話になって、韓国ではキリスト教徒が多いでしょう?と聞くと、イエス、でも自分は仏教徒だと言います。私も一応仏教徒なのだが、今のお寺を中心とする仏教は大嫌いで、死ぬときは仏教式にはしないと言う。彼女は全く信仰心を持たないと人と人との繋がりはどうなるの?というようなことを言う。私は自然を信じる。自然のなかに生まれ自然のなかに死ぬ、それで満足だと答える。彼女も自然が好きで、韓国でもよくハイキングをすると言い、、ここでも田園地帯を歩きたいと言います。
 

私は毎日田園地帯を歩くことにしています。歩く本を持っているのでいっしょに歩きませんか?と言うと、明日はブサキ寺院に行くツアーに参加するから駄目、明後日ならいいと言います。明後日私はブサキ寺院に行くつもりだったが、先に延ばしてもいいので明後日一緒に歩くことにして、王宮の前で10時に会う約束をしました。たどたどしい会話が続くはずですが、若い女性(30代独身?)と行動を共にするのは楽しみです。本当に来るかどうか分からないけどそのスリルが面白いですね。

 

今夜の踊りは大規模なガムラン音楽と何組かの踊り手たちのダンス、最後に長編のラーマーヤナのダイジェスト版がありました。



女性たちの動きはとてもきれいで、目の動きもとっても素敵です。毎晩いろいろな踊りを見るのはいいですね。上演時間は1時間半ほど、入場料は6百円ほどです。帰りは歩いて帰ります。狭いところであちこち歩き回っているのですっかり慣れました。

バリ島旅日記 その2、グヌン・ムルタ・バンガロー

2012-07-04 07:35:00 | 旅行
6月24日夕方、無事ングライ空港に着きました。
ヴィザ取得には25ドルかかります。ドルでも円でも払えますが、
マレーシアのリンギットがあったのでそれで払いました。
空港を出ると右側にタクシーステーションがあります。
そこでチケットを買って運転手に渡します。
運転手がたむろしていて、そのうちの一人が案内して車のところに行きました。
車はシボレーの小型車、でも町に圧倒的に多いのは日本車、特にトヨタとスズキです。
 
車は結構渋滞し、その隙間をオートバイが走りまわり、タクシーは警笛を鳴らしながらスピードを上げてすり抜けていきます。これでよく事故が起きないものだと思っていたら、突然ガタン!と大きな音がしました。車が何かに乗り上げたかと思ったら、後部を他の車とぶつけたようです。
 
運転手は外に出て、相手の小型トラックの運転手と話しながら、車のトランクをあけて紐を引っ張り出して、バンパーか何か縛っている感じです。私は車内にいたからよく分からなかったけど、2、30後にはスタートが出来ました。
 
宿に着いたとき車の後部を見たら、バンパーがひどく痛んでいました。
 
宿は石造りの家で、受付の青年は少し日本語を話します。
受付をしているとそばのテーブルに腰かけていた男性から声をかけられました。
同年輩の日本人男性です。
上海でリゾート施設の設計をやっていて、ウブドの施設を見に来ている、間も無くアメリカにいる奥さんの元へ帰るということでした。

 
まず部屋に荷物を置きに行きました。
部屋は石造りの二階建て、1階に2室2階に2室あって堂々たる建物です。
1階の部屋が私の部屋で、中に大きなダブルベッドが置かれ、トイレもバスもあります。外にはバルコニーがあって、森に面しています。
 
右が私の部屋。

 

バンガローと言うともっと簡単な建物を想像しますが、
コテージ形式なのでしょう。


なかなか気持ちのよさそうな部屋です。
 
さっきの男性の話では今夜ここに泊まっている別な人が踊りを見に行くと言っていたそうで、
それなら私も行ってみたいと言うと、青年は何箇所かで踊りをやっている、
どれがいいですかと訊ねます。彼が言う演目のなかに、ケチャダンスがあったので、
それがいいと言うと、オートバイで送ってあげると言いました。
 
宿の中庭

ウブドに着いたばかりで土地勘もないし、暗くなって来たので、送ってもらうことにしました。
踊りは7時からなので6時半出発です。
あまり時間が無いので宿で食事を摂りました。
注文したのは野菜サラダのガドガドと鶏の串焼サテ・アヤムです。
出てきたのは野菜炒めと鶏スープのソト・アヤムです。
サテ・アヤムとソト・アヤムの聞き違いですね。
 
オートバイの後ろに乗ったことが無かったのでオッカナビックリです。
帰りは一人で帰るつもりなので目印になる建物に注意していました。
 
演じられる場所はパダン・ドゥガル集会所、ケチャダンスが週3回演じられています。
中に入ろうとしたら受付が青年の分と二人分払えと言います。
え?と思いましたがすぐ納得しました。
彼はすぐ帰りましたから自分の分はキャッシュバックされるのです。
うまいやりかたです。

ケチャダンスは一種の男声合唱による踊りで、
図書館で借りて聞いたバリのガムラン音楽のCDのなかに入っていました。
手拍子と掛け声と歌の組み合わせで独特の音楽を作っています。



 
初めは歌ばかりでしたが、二人の女性(一人は男役?)が出てきて舞い、怪物も出てきました。その間ずっと合唱が続きます。途中から女声合唱も加わりました。

 


最後に広場の中央に大きな火が焚かれ、作り物の馬にまたがった一人の男がそれを素足で蹴飛ばして広げ、その上を歩き回ります。山伏の修行みたいですね。これはトランス状態でやることになっているようです。
 


1時間ほどで演技は終わり、宿まで歩いて帰りました。
20分ぐらい歩いたかな。途中タクシーに乗らないかと声をかけられましたが、
断って歩きました。回りの店を見るのも旅の楽しみです。

バリ島旅日記 その1 先が思いやられる旅立ち。

2012-07-03 10:46:21 | 旅行
1日夜無事にバリ島から帰ってきました。
一週間の旅行でしたが、本当に面白かった。
あちこちで待ち時間が多かったので、日記を書いていました。
70近い男の、一人旅の貧乏旅行の様子をご紹介します。
写真の花はウブドで撮ったものです。

 
成田空港が近づいて、第一、第二ターミナルのどちらで降りるのか分からなくなり、第一ターミナルまで行ってみる。マレーシア航空の窓口が南北ウィングに無いので、案内所で聞くと第二ターミナルだった。ターミナル循環の無料バスに乗って第二ターミナルへ。無事チェックイン。でもね、あれだけいろいろ調べてノートしているのに、第一か第二か書き忘れちゃうなんてひどいね。先が思いやられます。
 
ゲートで行列が出来ているので後ろに並んだら、係員がこちらへと言って先に通してくれた。老人に見られたんだろう。嬉しいような残念なような・・・・
私のいでたちはドイター社製の山用ザックと小さなデイバッグ、ウェストバッグ。これだけだから手荷物になります。乗換えがあるので手荷物になるようコンパクトにまとめました。東北に行くときよりも軽装です。

 
成田でも夕食を食べたのに夜10時発の飛行機内でも夜食が出ました。炭水化物が少なそうなものを少しだけ食べました。到着二時間前から明かりがつき、サンドと飲み物が配られます。クアラルンプールには4時半に着き、出発は12時半、8時間待ち時間があります。5000円をマレーシアリンギットに換えました。帰りにも使えます。椅子に坐っても眠れないのでイタリア料理の店に入って地中海サラダなるものを食べました。

 
全く見知らぬ世界で一人で動いているのは不思議な感覚です。私のようにウロウロしている人は老若男女大勢います。みんなそれぞれの目的地に向かう途中で、時間待ちのためにぼんやりしています。迷ったり間違えたり不安になったりするのが旅でしょう。人生の縮図と言われる由縁です。歳をとってくると直行直帰の旅よりぼんやりする時間がたっぷりあるほうが好ましいですね。


ミニスカートやショートパンツの若い女性たちが歩き回っています。あまりにもあっけらかんとして見えるのでセクシーでもなくなります。そういう中にいると異性への興味も薄れるのじゃないでしょうか。草食系男子が増えるのも分かる気がします。
 
夏の朝 女のももに 目も行かず
 
長男がマレーシアで就職できるかどうか来週中に決まるようです。3歳の孫への放射能の影響を恐れています。私はばかばかしいと思うけれど、長男は日本社会には適応しにくい人なので、マレーシアの方が向いているでしょう。孫も人に対して付かず離れず、自分の道を行くタイプなので、外国でも適応できるでしょう。マレーシアなら私も簡単に来れるしね。

 
バリ島に向かう飛行機の座席は通路側、トイレにはいいが外が見にくい。席はほぼ満席、バリ島は東南アジア有数の観光地だから人でいっぱい。機内放送も回りからも日本語は聞こえてこない。ここでも機内食が出る。ご飯やお菓子も出るがみんな食べてしまう。東京に戻ってから糖類制限食をまたやればいい。異国では出されたものをみんな食べるしかない。

 
マレーシア航空の食事はとてもおいしい。キットカットがあったりアイスクリームがついたりする。久しぶりに甘いものを食べました。