竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

田舎暮らしの未来。

2011-12-18 15:41:13 | 田舎暮らし

昨日(17日)から掛川に来ています。
こちらも寒いけれど、今の家は日当たりが良くて、
天気がよければ昼間は暖房いらずです。
夕方から薪ストーブを使い、調理もしちゃいます。
昨日は鶏の手羽元とシシャモの燻製を作りました。
途中で見た富士山

 
薪といえば遠野で会った田舎暮らし志向の青年を思い出します。
実際にやってみて、その中から何かをつかめばいいので、彼はきっとやるでしょう。
そんな青年が増えてくれば、そしてそれに同調する女性も増えてくればいいですね。

 
田舎は子供を育てるにはいい環境です。
小学校が小さい学校を変に意識して、大きい学校に負けないよう、
いろいろ試みていました。親子読書や親子日記なんかね。
本来学校でやるべきことに親も引きずりこんで、
学校教育の効果をあげようとしていたようです。
 
これには親の方が面倒だし、私は内心賛成しませんでしたが、
今残っている長女の親子日記を見ると、当時の生活が分かります。
それに私がよく子供達と遊んでいましたね。
一緒におもちゃを作ったり散歩をしたり。
でも子供には子供の世界があって、いじめがあったりして苦闘していたようです。
冬イチゴ

 
今は若い親たちが小さい学校では普通の教育は受けられないと思い込んで、
町の学校に行かせたがるようです。
前にも書きましたが、今私がいる地区には子供が赤ちゃんを含めて一人もいません。
 
日本中の地方で、成績のいい子供は都会の大学に入り、
将来の心配が無い大会社に会社に就職することが目標のようになっています。
そしてその子供達は地方に戻ってきません。
 
その状態をむげに否定することは出来ませんが、
江戸時代以来豊かで文化レベルの高い地方が日本を支えてきたのです。
その伝統が今崩れようとしています。
大震災が無くとも三陸地方は崩れかかっていました。
三陸の漁業は復活するでしょう。
でもそれ以外は・・・・・
近所のヤギ

 
親の目や学校の目が行き届きすぎた教育の弊害が目立つ時代です。
田舎暮らしの利点が見直されるときが来ないものでしょうか。
そういう時代が来ることを信じて、一歩一歩進んで行くつもりです。


被災地 岩手へ その3 故郷、陸前高田

2011-12-16 10:32:36 | 被災地ボランティア

 

11日(日)は朝から粉雪が舞っていました。さらさらして湿っぽくないのでかえって走りやすくなっています。

今日は井上さんの足湯隊の一員として陸前高田へ行くことになっています。
参加者は井上さん以外私と、前にも一緒だったことがある富沢さん、モンゴルから来た日本人、田舎暮らしを志望する青年。男ばかりの足湯隊はめずらしいね。足湯隊募集の日付が来週の日曜になっていたので、初めての人は参加しなかったようです。
 
みな足湯経験者でいつもの前もっての講習は無かったので、手の開いている富沢さんと田舎志望青年に手伝ってもらって、クリスマスリース用のテープを15人分ほどカットしました。富沢さんはこの春定年退職したばかりで、日本財団の足湯隊で何度も東北に来ています。落ち着いて何事も手際よくやる紳士です。
 
田舎志望青年は大学を出て2年目、就職はせずこれまではWWOOFジャパンに属して、あちこちで農業体験などを重ねてきたそうです。
 
いろいろ面白い組織がありますね。彼は薪で生活するのが夢だそうで、なんだか私と似ていますが、車は嫌いだから運転しないといいます。普通の田舎暮らしでは現在、車が都会以上に必要不可欠になっています。だから町のそばで週2、3日働きながら暮らしたいそうです。
 
見知らぬ田舎に入っていくとき奥さんや子供がいるほうが歓迎されます。猿やイノシシならいざ知らず、田舎で暮らすことは人の中で暮らすことです。それも都会より濃密な人間関係の中で。
 
田舎で暮らすことがどういうことなのか、まずやってみなければ分かりません。私も四国の宇和島で暮らし始めたときは自動車も無く一人身でした。間もなく家内と知り合って、結婚するために小平に戻りましたが、3年で島根県に移住しました。その時は子供も二人いたし、中古の車も買うことになりました。一歩踏み出してから経験を積んでいくんですね。
 
モンゴルから来た人は40歳ぐらい、本職はマッサージ業、モンゴル人の女性と結婚してモンゴルに行き、子供さんも二人いるとか。子供達は奥さんの両親が育てているのでモンゴル語しか話さず、モンゴル語の苦手なお父さんとは話があまり通じないとか。
 
遠野まごころネットに来るといろいろな人と出会います。外国に住む日本人が一時帰国のついでにボランティアに来ているケースがよくありますね。男も女も、青年も高齢者も様々な思いで活動しています。周りの人と話すのも楽しみの一つです。
 
この日行ったのは陸前高田市小友地区の三日市仮設住宅の談話室。22軒ほどの仮設の中にあり、足湯は初めてのところです。前もって通知はしてありましたが、寒くて風の強い日なので、一軒一軒、足湯のほかに希望者にはクリスマスリースを作ってもらうと言ってまわりました。
 
ここでも開始時間の少し前から人が集まりだしたので、足湯と一緒にリース作りも始めました。小友地区は町の中心から離れています。でも町のことを知っている人も多く、私が生まれた家のあたりや親戚のことを知っている人も何人かいました。そういう人に会うと故郷に来たんだという思いが強くなります

 
ここの人たちは仲が良くて、高齢で進み方が遅い人にも手伝ってあげていました。後から参加した人にも教えてあげていたので大助かりでした。


 
3時を過ぎて足湯のほうが早く終わって、私の方が終わるのを待っていたので、今回は歌の時間はありませんでした。
足湯風景

 
皆さん来月も来て欲しいとのことでした。かごを作りたいという希望のほかにお雛様を作れないかという声もありました。クラフトテープのお雛様があることは知っていましたが、大したものじゃないというと、それでもいいからと言っていました。そう、皆さんお雛様を津波で失くしてしまったんですね。家内が作っている紙塑人形のお雛様と言うわけにもいきませんが、クラフトテープで手作りのお雛様を工夫して、1月2月はお雛様作りにしようと思いました。

 


被災地 岩手へ その2 おおつち鮭帰願祭

2011-12-15 19:05:22 | 被災地ボランティア

10日はカフェ隊の一員として大槌町に行くことになりました。
場所はある仮設住宅の集会所です。
その前に大槌川の河川敷で行われている、鮭が大きくなって帰ってくることを願う祭りに立ち寄りました。
 
 
テントが並んで鮭その他の地元の物産を売っていたり、カナダからのクリスマスプレゼントとして、ご馳走のプレートや鮭汁が振舞われていました。カナダや日本のミュージシャンのライブや鹿踊り、虎舞もあったようです。私はお昼代わりに屋台のクレープを食べました。

 
集会所に着いて昼前に準備完了しました。鮭帰願祭もあるので人が戻る2時から始めるつもりでしたが、昼前から人が集まり始めたので、すぐクリスマスリース作りを始めました。

 
これは現物もレシピも材料もエムズファクトリーから寄付されています。2時間以内で出来るので、ちょうどいいのです。岩手県沿岸部は意外にキリスト教が広がっています。皆さん何の抵抗も感じないようでした。
 
結局15人分では足らず、その場でテープを切って追加し、20人ほどの人が作りました。第一陣が作り終わった頃、お茶を飲む人たちもいたので、アコーディオンを出してみんなで歌を歌いました。「北国の春」とか「みかんの花咲く丘」などです。


 
一人のおばあさんが涙を流してリースを編んでいます。お姉さんが「みかんの花咲く丘」が大好きでよく歌っていたとのことでした。歌にはいろいろな思い出があります。辛い思い出、悲しい思い出、それを解き放ってしまいます。でもその人は最後までリースをしっかり編んでいました。
 
夕方になるとすっかり寒くなります。ちょっと雪もちらついてきました。


被災地 岩手へ その1  イルミネーションとケンケラット

2011-12-14 11:25:18 | 被災地ボランティア

 

12日早朝遠野から帰ってきました。
 
まごころネットは11月末に遠野市総合福祉センターから遠野市浄化センターに移りました。ここには日本財団の足湯隊で宿泊したまごころ寮があり、神奈川県のボランティア宿舎金太郎ハウスもあります。まごころネットの建物は4棟建つはずですが業者の都合でまだ2棟しかなく、今は狭いところに押し込められています。借りていた体育館の使用期限が切れて、仕方なく急遽引越ししたのです。 
 
予定していた陸前高田市での長部コミュニティーセンターと一中仮設集会所でのかご作りは会場の都合その他で実施できなかったのは残念でした。でもかご作り以外のまごころネットの活動もとても印象的でした。
 
初日8日は予定が入っていなかったので、午前中は部屋の中でテープ切り。
今回はクリスマスが近いのでクリスマスリース作りをします。
その材料を前もって切っておかなければなりません。
長部や一中ではやれないので、とりあえず15人分ぐらい切りました。
 
9日は朝から雪混じりで辺りは白くなっていました。
粉雪で走るのには差し支えなく、10キロほど走りました。
近くの猿ヶ石川と早瀬川の合流地点には白鳥が来ていました。

 
この日もかご作りの予定が入っていないので、札幌の会社の社長水谷さんが被災地にイルミネーションを贈る企画で来ていたので、それを手伝うことにしました。
 
 
場所は午前中は翌日10日に陸前高田市で気仙町復興祭が行われる長部地区のまごころ広場です。近くには10月に瓦礫を拾って麦播きをした畑があり、青々とした数センチの麦が一斉に生えていました。移植された大きなもみの木と広場の建物にイルミネーションを飾ります。

 
 
午後は陸前高田市の下矢作にある保育園です。ここでは例年飾っているイルミネーションが津波で流されてしまったので、なんとかならないかとまごころネットにメールがあり、ちょうどそこへ水谷さんのイルミネーションを贈る企画がまごころネットに届いたので、今回設置することになったのです。まごころネットの事務局の柳沢さんもずっと同行していたので、その活動の写真がブログに載ったのです。  

 
保育園の周囲の囲いや建物の前面に張り巡らしたので、園児達も大喜び、私たちも大歓迎されました。おやつに招かれて出されたのがケンケラットでした。きな粉を水飴か何かで固めたお菓子です。
 
子供の頃に食べて、その奇妙な名前を覚えていました。東北に来るようになって一ノ関や仙台のお土産コーナーでケンケラットの名前を聞いても誰も知らないと言うので、自分の聞き間違えかと思っていました。それが眼の前に出てきたのです。園長先生のお話では陸前高田のお菓子だそうで、本来はねじりん棒の形だけど、平たくしてあるということでした。長年の疑問が解けました。

 
矢作は私の先祖の地で、曽祖父の頃までは長くこの地に住んでいました。祖父の代から高田町に移ったようです。イルミネーションを飾るためにこの地に来ることが出来たので、これも不思議なめぐり合わせです。
 
点灯式をやるまでまだ明るくて間があったので、子供達や先生は園庭でお遊戯を踊ってくれました。私達の周りをはねまわり、本当に嬉しそうでした。

私達一人一人に折り紙のメダルを下げてくれました。
子供達はこの国の未来です。掛川の山村居尻には子供が一人もいないだけに、イルミネーションのような明るい未来を開いてくれれば、と思いました。水谷さん、イルミネーションありがとうございます。