竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

藤田嗣治展と古代オリエント博物館

2018-09-15 08:49:59 | 歴史と人類学

一昨日、9月13日家内と一緒に上野の都美術館で開かれている藤田嗣治展を見に行きました。

かって伊藤若冲展を見に行った時には大行列で館内に入るまで2時間半も待ちました。



藤田嗣治展ではそれほど混んでいなくてゆっくり回ってみることが出来ました。

 


青年時代からフランス時代、日本に帰ってから戦争画を描いた時代、
戦後再びパリに戻り、パリ郊外で過ごした晩年まで、
多くの作品群が並んでいました。

彼のパリ時代の独特の白い背景はとても魅力的でした。



その後上野から池袋に周り、サンシャインビルの隣にある文化会館で古代オリエント美術館に行きました。
友達のオリエント研究家から割引券をもらったので、行ってみたのです。
ここはとてもすいていてゆっくり古代の遺物を眺めることが出来ました。



こんなところにちいさあ行けれど面白いオリエント博物館があるなんて驚きです。
池袋駅までの道筋も何十年ぶりかで通る道で、
様々な店が並んでおり、家内は和紙専門店を覗き、
私は帽子専門店で帽子を買いました。

月に一度は都内に出ようと思いながら忙しさや怪我に妨げられしばらく外出しませんでした。
せっかく東京という面白いところに住んでいるので、
出かけなければ勿体ないですね。


一本の松葉杖で歩く、聖杯伝説

2018-05-14 11:54:25 | 歴史と人類学

写真は庭の花

右足は大分良くなって来たようです。
家の中では松葉杖一本で歩いたり、
松葉杖無しで、あちこちつかまりながら歩いたりしています。


今日は好天なので松葉杖一本で歩いて外に出ました。
一本で歩くと右足に少し痛みがあるので遠くまでは歩けません。
近所の公園に行ってベンチに座ってしばし読書に耽りました。、
今読んでいる本は図書館で借りた、
フランス中世文学集の2の中の

「ペルスヴァル または聖杯の物語」

アーサー王物語の中の一環、著者はクレチアン・ド・トロア
聖杯伝説がこの中で初めて語られるようです。

言わばケルト由来の12世紀のおとぎ話のようなもの、
おとぎ話に弱いものでこんな本を読んでいます。


中村小夜著「昼も夜も彷徨え」マイモニデス物語

2018-02-18 20:05:55 | 歴史と人類学

写真は私が数日前家の周りの草を刈っている時
何度も私の周りに来て私を見ていたジョウビタキです。
今日もすぐそばの枝に止まっていました。

最近読んだ本で途中でやめられず、
夜明けまで読みふけってしまった本を紹介します。

中村小夜著「昼も夜も彷徨え」です。
これは12世紀ごろイスラムで活躍したユダヤ人の思想家、
モーゼス・マイモニデスの物語です。

マイモニデスはコルドバで生まれ、当時スペインと北アフリカを支配し、
ユダヤ人を迫害したムワッヒド朝を逃れ、
あちこち放浪してファーティマ朝のエジプトフスタートに落ちつきます。

彼は自由思想の持ち主で伝統的なユダヤ教の支配層に反逆し、
ギリシャ哲学とユダヤ思想を結び付け
後のヨーロッパ思想にも大きな影響を与えました。

彼のことはかってヨーロッパ中世史に関心を持った私も名前だけは知っていました。
この本によってユダヤ教の思想家であり、ギリシャ哲学を学んだ哲学者、
そして心の世界にも関心をもった医者だったこの人物をよく知ることが出来ました。

それに当時のイスラム世界、最も文明が進んでいた世界についても、
詳しく語っています。

著者はイスラム世界のシリアやエジプトを放浪し、
イスラム文化に魅了された青年?(年齢不詳)で
イスラム世界を紹介するためにこの本を書いたようです。
感心するのはその筆力、とにかく面白いのです。

中公文庫のための書下ろしで、今年の1月25日初版発行
小平市の図書館で見つけました。

マイモニデスについては一般にはあまり知られていないでしょうから、
どれだけ読まれるかちょっと心配です。
とにかく素晴らしく面白い本です。


東京散歩 15 日本民芸館から駒場野公園

2016-02-18 12:13:28 | 歴史と人類学

2月11日木曜日、東京散歩に出かけました。
今回は主に駒場方面です。
京王井之頭線の神泉駅をスタートして、渋谷の文化村のわきを通って、松涛美術館に行きました。
ここでの絵画鑑賞を楽しみにしていたのでっす。でも展示替えのため休館、残念。

そこから駒場公園に行くはずでした。毎度のこと、道を間違えて、日本民芸館に出てしまいました。

駒場公園は急前田侯爵邸の跡地にできた公園で、旧邸宅のほか日本近代文学館もあるところ、
でも通り過ぎてしまったので今回は諦めて日本民芸館に入りました。


宋の陶磁器

木喰仏

ここは民芸運動の中心です。
民芸協会のホームページから引用します。

民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化 運動です。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。そんな中、柳たちは、名も 無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない 美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざ した民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示 したのです。工業化が進み、大量生産の製品が少しずつ生活に浸透してきた時代の流れも関係していま す。失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴 らしました。物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求したのです。

http://www.nihon-mingeikyoukai.jp/about/souetsu/

現在柳宗悦の著「美の法門」に基づく展覧会をやっており、
朝鮮や中国の焼き物、各地の織物、木喰仏その他の展示がなされています。
もう一度ゆっくり見に来たいと思っています。

そのあと駒場東大前の駅のそばでで昼食をとり、駒場野公園に行きました。


ここは明治期に駒場農学校があったところで、今でも田圃が残され、筑波大付属駒場中、高等学校が管理しているそうです。
様々な木も植えられて自然観察園になっています。


今回は眼目の一つ駒場公園には行かず仕舞いでした。
でも心残りがあるほうが次の楽しみにつながります。
最近親鸞に関心を持ってきましたので、(といっても五木寛之の「親鸞」を読んでいる程度ですが)柳宗悦の宗教思想も知りたくなってきました。

16日から掛川に来ています。16日の富士山は見事でした。


いつものように富士川サービスエリアから撮った写真です。




昭和記念公園ハーフマラソンと大雪

2016-01-18 14:37:36 | 歴史と人類学

1月16日土曜日に昭和記念公園でハーフマラソンの大会がありました。
いつもは一年に2回ほどフルマラソンの大会に出るだけです。
でも今は走力がどんどん落ちているので、3月20日の板橋シティーマラソンのための練習として参加しました。

ここは箱根駅伝のシードを外れた参加校の予選会が行われているコースです。
そのためか大学生の参加者が多く、私のようなのろのろランナーは少ない大会でした。

コースは割合平坦で、5キロコースを4周します。
大学の選手たちは私が2周する頃にはゴールしていましたし、一般の参加者も3周する頃にはゴールしていました。
4周目に入るころにはぽつぽつと走者がいるだけで、急に寂しくなりました。

私のタイムは2時間30分に近く、ちょうど1キロ7分のペースで走ったことになります。

このペースのままフルを走れればいいのですが、まず無理でしょう。20キロ以降歩くことになります。
キロ8分でフルを走れれば上々、そんな今の力を痛感する大会になりました。

次は2月7日のお台場ハーフマラソンです。こちらは10キロコースを2周する大会で、去年も参加しました。その時は1月開催で、2月の東京マラソンの練習として参加しました。

自分の衰えとの闘い、これは結構きついものですね。

今朝は雪が積もっていました。
小平では12センチほど積もりました。

去年はあまり積もらなかったので、一昨年以来の久しぶりの積雪です。

今朝は走れなかったので、みっちり雪かきをしました。
暖冬の時はかえって積雪が多いような気がします。
何回か雪かきをすることになりそうです。

本当は昨日掛川に行くつもりでした。
でも大会の後で疲れが残っていたので、一日二日延ばすことにしました。
でもこの雪で木曜日あたりに行くことになりそうです。


秋の七草

2015-08-27 08:14:46 | 歴史と人類学

秋の七草がいくつか見られます。
終わりかかった花、これからの花いろいろですが、
かっては見られたものの減ってしまった花もあります。

名前の呼び順はいろいろあるようです。
私が覚えているのは、

女郎花(オミナエシ)、葛(クズ)、萩、桔梗(キキョウ)、フジバカマ

雄花、撫子(ナデシコ) 秋の七草

オミナエシは野では少なくなりました。栽培されたものが夏の初めから咲いています。

クズは今咲きだしたところです。クズは生命力が強く、放っておけばどこまでも伸びる厄介者です。

でも昔はクズの蔓から繊維をとって葛布を織っていました。

ちなみに掛川は江戸時代から葛布を特産物にしており、いまでも業者が残っています。

また根から葛粉をとってお菓子の原料や葛根湯として薬にも使用していました。

萩はこれから花が付く状態です。



桔梗は野ではほとんど見られなくなりました。
絶滅危惧種になっているようです。



万葉集の中で山上憶良が歌っている歌、
 
萩の花、雄花、葛花、ナデシコの花、をみなへし、また藤袴、朝顔の花


と歌われている中の朝顔の花は、桔梗か槿(ムクゲ)といわれています。

フジバカマは外来の植物のようで、山には普通ありません。
山にあるのは同じ仲間のヒヨドリバナ、これは薄紫ではなく白い花です。



雄花はススキ、いまようやく穂が出だしたところです。



ナデシコはカワラナデシコ、中国伝来のナデシコ、セキチク(石竹)に対し大和撫子とも言われます。


この花は以前田の脇に生えていましたが今は消えてしまいました。

その場所にイノシシ避けの電柵が張られています。

植物の世界にも栄枯盛衰があるようです。

ヘクソカズラというひどい名前の花があります。
この蔓は秋になるとかご編みその他の材料になります。



タカサゴユリは栽培されるといくつも花をつけます。










遠州灘40キロラン

2014-09-25 07:53:05 | 歴史と人類学

一昨日23日には久しぶりに遠州灘まで走って往復しました。
ネット上の距離測ではかるとちょうど40キロです。

掛川の大きなホームセンター脇の駐車スペースに車を置いて朝7時出発。
近頃寒いので軽いウィンドブレーカーに小さなデイバッグを背負っています。
でも今日は朝から快晴、日差しも強くすぐランシャツランパンに着替えました。
道は一筋南へ、途中の川べりには彼岸花が咲いています。



しばらく走ると風力発電の風車が見えて来ました。
遠州灘沿いにいくつも並んでいます。



いつもは風が強いところですが今日は微風、止まっている風車もあります。

今まで何度も走っているなじみのコースです。。今年の1月にも走りました。
このコースのいいのは海に出られることです。


海と長い砂浜、寄せ来る敷浪を眺めていると時のたつのを忘れます。



小さいころは海が身近にありました。
夜になると海鳴りが聞こえることもありました。

私の生まれ故郷は陸前高田市、名勝高田松原までは1キロ半
よく海水浴に行きましたし、夕方散歩したこともありました。
今では松は一本もなく、砂浜も大きくえぐられてなくなっています。

私が生まれた家のあたりは津波をかぶって家々は全滅、今は土台のコンクリートだけ残っています。地面を7mかさ上げして町を再建する計画があります。
でも難題山積みのようです。

この日は波も穏やかでサーフィンをしている人たちもいます。
砂浜で早めの昼食を食べてまた走りはじめました。



途中の田んぼは稲刈りが終わった田が半分ほど、
そこに真っ白いコサギが群れています。



掛川の街にもどると、新築だけど昔風の三角屋根の家が目立ちます。


城を再建したので、それにあわせて城下町風のたたずまいにしようとしているのです。


町全体の区画整理で広い道路が広がっているので昔の街の風情はありません。
あと数十年もすれば落ち着いてくるでしょう。



掛川市には二宮金次郎の思想を普及する団体、報徳社の総本山があります。
明治時代の建築が修理されて見学できるようになりました。

かって全国の小学校に薪を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の像がありました。


私が小学校の1年までいた陸前高田の高田小学校にもありました。
今も津波に耐えて残っています。



掛川といえば山内一豊が一時居城としていたことで有名ですが、二宮尊徳との繋がりもあるのですね。



午後から日差しもいっそう強くなり、熱中症をおそれてペットボトル5本の水分をとりました。
無事に走り終えて車で家に戻りました。
夕方ドラム缶風呂を沸かすのが面倒になって近くの温泉に行きました。 温泉の中でお湯につかると足がひりひりします。 走りすぎの痛みなのかと思ったら、腿から下が真っ赤、 陽に焼けたのです。 久しぶりに日差しが強く暑い中で走ったのでね。こたえました。
これでフルマラソンを走りきる自信がつきました。
体は少しずつ衰えていきます。
でもマラソンを走ったり山に登ったりも出来ます。
この状態を少しでも長く続けたいものです。


初夏の花 その2 帰化植物

2014-05-30 06:13:59 | 歴史と人類学

掛川では一人暮らしです、
三食自分で作るので、血糖値の管理には好都合です。
それに教室が地元の公民館で三回、
自宅で竹細工を一回教えています。
結構忙しいし、教室では皆と一緒になってペチャクチャしゃべっています。

小平でもそうですが、教室でお互い楽しくおしゃべりするのが会を長続きさせるコツですね。
私は変な男ですから、からかったりからかわれたり、話題はいろいろです。

朝のジョギングではバス道路沿いに帰化植物が目立っています。
近年急に増えているのがマツバウンラン、小さい花で目立ちませんが、よく見るとかわいい花です。



よく似たのがヒメキンギョソウ、奥の集落に咲いています。



これも急に増えてきたのがバーベナリギダ、あちこちにまとまって咲いています。



アカバナユウゲショウ、これも急に増えてきています。小さいけれど可憐な花です。


ヒルザキツキミソウ、これは花びらも大きく庭に植えてもいい花です。


ムギナデシコも花壇の花が野生化したものです。


ムシトリナデシコは生命力が強いようでどこでも咲いています。


ヒメツルソバは多摩川沿いで初めて見ました。
今はここでも咲いています。


我が家の庭にはギンバイソウが毎年顔を出します。


今年初めて知ったのはキキョウソウ、目立たない花ですが、よく見るときれいです。


ヨーロッパの野草ジギタリスも野生化しかけています。


この地域では若者や子供の数が減っています。
増えているのはイノシシばかり。
かと思ったら帰化植物もどんどん増えています。

日本の人口の減少とともに、帰化人も増えていくかもしれません。
もともとあちこちからの帰化人によって成り立った国のようですから。


昔の小平の名残り

2014-01-18 21:48:24 | 歴史と人類学
昨日はジョギングで小平発祥の地の辺りを走りました。
富士山が今日もきれいに見えています。

小平市は本当に平坦で、昔はどこからでも富士山が見えたことでしょう。
 
玉川上水を西に進むと小川橋にでます。
そこでいつもは引き返すのですが、今日は玉川上水の分水小川用水に沿って、
青梅街道を東に向かいます。
 
元旦に初詣でをした神明宮の近くに小川寺(しょうせんじ)があります。


小川というのは地名でもあり、この辺りに最初に定住した一族の名前でもありあります。
玉川上水が開削され、分水を引き込むことでススキの原だった小平に人が集まりました。
私の小学校時代の町長は小川一族の人でした。

 
青梅街道沿いにはかって多くのケヤキが植えられました。


材として高価なことや落葉が嫌われて、今はわずかになってしまいました。
この辺りの農家の垣根にはヒイラギの生垣が使われていました。

 
玉川上水の分水はあちこちに伸びて、畑が作られました。
小川新田、鈴木新田、野中新田、大沼田新田などです。
新田と言っても田ではなく畑でした。
 
武蔵野の雑木林は自然林ではなく、江戸の街のための薪や炭用の人工林でした。
今でもわずかに保存樹林として玉川上水沿いに残されています。 
私が住む小平学園は、昭和の初めごろに西武多摩湖線の開通とともに開発された住宅地です。新開地のため神社もお寺もありません。
 
日本の伝統的な村社会から切れて、大都市周辺の新開地に住むことは、
いろいろな意味で現代日本の象徴的な住まい方であり、
私自身はそれに反発して、田舎暮らしを志向して来ました。
 
でもどこに行っても根無し草、傍観者、どこの共同体にも属することは出来ません。
でも田舎でも過疎化の進行と共に共同体は壊れつつあります。
 
その中で生きていくことは現代人の宿命です。
 
でも新しい動きのようなものも見えています。
東北の被災地で活躍する若者達、
手作りの料理を志向する人々、
自分の手で物を作りたいと思う人々、
現代のグローバリズムの流れとは違う方向を目指す人々も大勢います。
 
未来はそんなに暗いものではないと思います。
 
 

高群逸枝の四国遍路 その2 石牟礼道子 渡辺京二 イワン・イリイチ

2013-11-23 20:43:41 | 歴史と人類学
以下の写真は今日掛川の町で行われた農業祭の様子です。
神田の古本祭りの様子に似ていますがもっと大規模、こういう消費者が参加者のような祭が増えてきました。人が集まるだけで楽しい雰囲気が生まれますね。
 
高群逸枝は遍路の道々で、周囲に特別な人と言う印象を与えたようです。
 
四国に渡る前、熊本から歩いて別府まで行きますが、その途中で74歳になる老人の家に泊めて貰います。その夜の老人の夢に観音様が現れたので、彼女が観音様の申し子だと思い込みます。そのため彼女の遍路の間ずっと同行して彼女を守ると宣言し、最後まで彼女と歩き続けます。
 
新聞に彼女の旅行記が連載されたこともあって、道々歓迎されたこともあります。でも当時の遍路は基本的にはレプラの患者とか不治の病に犯された人々、極貧の敗残者のような人々が歩いていて、乞食のような存在でした。まともな宿では遍路お断りです。途中で行き倒れても本望、遍路の白装束は死出の装束でもありました。
 
「娘巡礼記」は彼女の生の体験記で、彼女の才気と相俟って面白い旅行記です。

 
彼女が遍路に出たのは新聞記者になろうとして失敗して困窮し、恋人だった橋本憲三との愛情のも
つれもあって、思い切って全てを捨てて出直そうとしたのでした。
その後橋本憲三と結ばれ、東京に出て行き、得意の文才を発揮して、女性解放運動に関わっていきます。

 
その70年の生涯(1894~964)は37歳(19319を境にして一変します。
 
前半の37歳までは詩人、評論家、女性解放運動の旗手として社会活動をします。
後半は社会との交わりを一切絶ち、世田谷区の通称{森の家」にこもって、面会謝絶、
一日10時間を越える勉学を続けてひたすら女性史の研究に打ち込みます。
 
四国遍路に見られるような才気煥発な彼女が、ソローに倣って名づけられた「森の家」で一日10時間、女性史の研究に打ち込みます。今度は社会との繋がりを一切絶って、家事一切はは夫たる橋本憲三が引き受けました。
 
その努力は「母系制の研究」や「招婿婚の研究」等の著作に実って生きます。
 
彼女の生涯については早稲田大学教授鹿野政直、堀場清子夫妻の「高群逸枝」が詳しく記しています。

 
また同じ熊本出身で、高群逸枝の著作に感動した石牟礼道子が、逸枝の死後橋本憲三の招きで半年ほど「森の家」に滞在し、「苦界浄土」を書き続けています。

 
石牟礼道子と言えば、編集者として彼女を育てた渡辺京二がいます。
 
彼の「逝きし世の面影」はかって読んで感動しました。でも彼の著作の内容を幕末や明治初期の通常の歴史の中のどこに位置づけるのか、全く見当も付かないまま過ぎて来ました。最近「彼の近代の呪い」や「アーリーモダンの夢」を読んで得心しました。
 
近代の、そして現代産業文明への批判が石牟礼道子や渡辺京二の共通点なのです。

 
イワン・イリイチは近代が生み出した学校制度や病院制度、産業社会を徹底して批判しています。渡辺京二は彼に共感し、彼の著作を翻訳もしています。イワン・イリイチは名前しか記憶にない思想家ですが、渡辺氏のおかげで彼のものを読み始めています。
 
娘巡礼記に心惹かれているうちにどんどん世界が広がっていきました。私のぼんやりした頭でも、渡辺京二には感心しています。とてもいい感性を持った評論家です。彼の導きで色々な世界をのぞいてみたいと思っています。