ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第80回)

2020-03-10 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(2)革命的地方名望家階級の形成
 フィリピンのスペイン支配は、中南米のスペイン植民地と同様、スペイン系の大地主がプランテーション農園を営み、マレー系を主体とする先住フィリピン人を労働者として使役する形態を取っていた。これらのスペイン系大地主は社会における最上層を占めたが、19世紀になるとその下に非スペイン系の中間層が生まれてきた。
 これら非スペイン系中間層は中国系移民華僑やその混血系の子孫が多く、近代的教育を受け弁護士、医師などの知識中間階級になったほか、地方名望家として財産を保有し、地方の町役人としてスペイン植民地支配を下支えする存在となっていった。しかし、同時に、スペインからの独立を目指す最初の近代ナショナリストの給源ともなったのである。
 そうした一人にホセ・リサールがいた。華僑系の知識人家庭に生まれた彼は高等教育を受けて医師となった。日本や欧州にも留学して国際的な見識を得た彼は、帰国後、穏健な民族主義団体「フィリピン同盟」を結成した。この団体は、独立ではなく、フィリピン人の覚醒と団結を目指すものであったが、スペイン当局から危険視され、やがてリサールの命取りともなった。
 より明確に独立運動家・革命家として長く活動したエミリオ・アギナルドはより明確な地方名望家階級の出自であった。やはり華僑系のアギナルド家は北部カヴィテ州の町カウイトで世襲町長を務める一方、父は弁護士でもあった。自身は高等教育を受けず、若くして町長職を継ぎ、職業的政治家となった。
 アギナルドに代表されるような地方名望家階級は、スペイン支配層に対しては小地主階級として下位に置かれる一方、先住フィリピン人の労働者階級に対しては優位に立つという両義的な中産階級として自己を確立していく。そうした中で、地方名望家階級はスペイン支配からの独立を目指す革命的な覚醒を経験するようになった。
 しかし、かれらの革命的展望はあくまでもスペイン支配を廃して地方名望家としての権益を拡大し、ゆくゆくはフィリピン全体の支配層に取って代わることにあり、労働者階級の支配を許すことではなかった。その意味では、かれらの革命観は、西欧的な文脈で言うところのブルジョワ革命に置かれていた。
 実際、最終的にフィリピンが独立を達した後は、この地方名望家階級が地主階級として、地方政財界から中央政財界までを掌握する支配層に着座するが、さしあたり19世紀末時点における地方名望家階級は未だ自力で革命を遂行するだけの凝集力を備えていなかった。
 そのため、西欧諸国のように、一気にブルジョワ革命に進むことはできず、初動は労働者・民衆の側からの決起に頼る必要があった。そうした事情から、フィリピンにおける独立革命は、先行して地方名望家階級と労働者階級が連携するという地点からスタートするというユニークなものとなったのである。

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近代革命の社会力学(連載第79回)

2020-03-09 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(1)概観
 欧州での革命の波がいったん停止した19世紀末、ハワイ、フィリピン、キューバと、アジア‐太平洋、カリブ海域の三つの島嶼地域で大きな革命的事変があった。この三つは、当時、先鋭化していたスペインとアメリカの覇権抗争とも密接に連動した事象であった。
 このうち、ハワイ共和革命については前回まで見てきたところであるが、本章ではアジア‐太平洋という地政学上のくくりではハワイともつながるフィリピンの独立未遂革命について、取り上げる。
 古代以来、マレー系住民を中心とした多民族が集住してきたフィリピンでは、首長に率いられた部族国家が林立し、統一国家が樹立されることはなかったところ、16世紀前半、大航海時代を迎えたスペインに征服され、それから数世紀の間はスペイン支配下に置かれていた。
 転機が訪れたのが、19世紀末、スペイン帝国の衰退期である。この時代には、新興の帝国主義国アメリカがアジア‐太平洋地域への進出を狙い、当該地域のスペイン領に触手を伸ばしてきた。そうした構造変動の中で、フィリピン人の間に近代的な民族意識が芽生えたことで独立運動が興隆し、革命的な様相を呈した。
 このフィリピン独立革命は、まさにフィリピンをめぐるスペイン・アメリカの攻防と連動し、1896年と1898年の二次に分かれる。この二度の革命的蜂起はともに独立を目指した点では共通で、主導した革命家の顔ぶれにも一部重複がありながら、それぞれ主たる担い手の社会階層に相違があり、必ずしも連続した事変とは言えない。
 しかも、いずれの革命も、革命政権の樹立には漕ぎ着けながら、結局のところ、圧倒的な軍事力を擁するスペインまたはアメリカの帝国側によって短期間で鎮圧され、失敗に終わったという点では、「独立革命」ならぬ「独立未遂革命」と呼ぶべきものであった。
 最終的には、98年革命が挫折した後、フィリピンは半世紀近くにわたり、アメリカの植民地となり、言語・文化両面で急速なアメリカ化が進み、アメリカ的な民主主義思想も根を下ろした。そのような事情からも、フィリピン独立未遂革命の歴史的評価は、視座によって大きく分かれることがあり、評価を難しくしている。
 なお、冒頭述べたように、フィリピン独立未遂革命は同じくスペインからの独立を目指したキューバ独立運動とも並行・連動していたのであるが、その結果に関しては、フィリピンは失敗、キューバは形式的に成功するも、事実上アメリカの属国となるというように、分かれている。
 キューバ独立運動は「革命」より「戦争」の性格が強く、通常「革命」とは呼ばれていないが、形式的とはいえ、ひとまずは「独立」を達成した点で、革命的な要素が皆無ではなかったことから、本章最終節では、キューバ独立運動との対比も試みてみたい。

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「世界コロナ恐慌」の可能性如何

2020-03-08 | 時評

平常時には万能に見える資本主義市場経済が非常時に弱いことは証明済みであるが、今般のコロナウイルス禍でまたも脆弱さを露呈している。何と言っても、今や「世界の工場」にして、世界の観光産業の最大顧客ともなっていた中国を直撃したことが最大の要因である。

マスクのように医療機関にとっては必需品、家庭にとっても必需に近い有益品まで生産を中国に依存するというある種の国際分業体制が急激に停止すれば、グローバル資本主義はたちまち立ち往生してしまう。他方、現代資本主義において枢要な第三次産業となっている観光業の総不振も、それだけで打撃として十分過ぎるほどである。

さらに、中国に続き、アメリカでも急速に全米規模で感染が拡大しており、後発的な感染爆発に進展する兆しが見える。そうなれば、資本家大統領トランプの下でここ数年好調だったアメリカ経済に打撃となるばかりか、アメリカから「逆輸入」の形で、国境を越えた第二波のウイルス拡散現象が発生する恐れもある。

それでも、主として北半球だけの感染爆発に終わればまだ救いはあるが、南半球はこれから冬の季節を迎える。コロナウイルスが冬季に流行しやすい性質を持つとすれば、北半球で終息しても、続いて南半球が感染爆発期を迎えるかもしれない。そうなれば、まさに十数年前の金融危機に端を発する世界大不況と同程度か、より深刻な世界恐慌に進展する恐れを否定できまい。

いずれにせよ、21世紀のグローバル資本主義は自然災害危機の連続である。新型ウイルスの発生も一つの自然現象であるが、国際的な人流が極限的な規模に達していることが、ウイルスの急速なグローバル拡散を可能にし、人類の心理的特性でもある不合理なパニック行動を通じて、自らの経済システムに打撃を与えてしまう。

そうした危機のつど、資本主義はなりふり構わずびほう的な「緊急対策」で表面的には危機を乗り越えていけるように見えても、何度も繰り返し重傷を負った人体と同じように、その機能は度重なる荒療治により長期的に低下していくことを免れないだろう。

今般の経済危機に対しても、すでに世界の資本主義支配層はびほう策を準備しているから、ウイルスによって資本主義が完全に崩壊することは回避されるのだろうが、金融危機と違って、相手は目に見えない敵である。しかも、その正体をまだ誰も精確には知らない未知の病原体であるから、「封じ込め」など、政治的な演説以上の意味を持たない。

個人的・良心的にはウイルス禍の早期終息を願うが、コミュニストとしては、この禍がグローバル資本絶対主義に対する自然界からの最大級のしっぺ返しとなることを期待している。それにより、平常時は地味だが、非常時に強味を発揮する共産主義計画経済の利点に少なからぬ人々が開眼してくれるなら、望外である。

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公衆衛生とプライバシー配慮

2020-03-08 | 時評

日本国内での新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、感染者の出た自治体がそのつど慌ただしく会見やウェブサイトを通じて感染者の詳しい発症経緯や行動記録を公表することが慣例化している。

しかし、患者カルテの一部公開に近いこうした情報開示は果たして必要なことなのだろうか。筆者の知る限り、同様に全米規模で感染が広がっているアメリカでは、感染者の出た地域ないし施設と人数が公表されるだけで、患者の詳しい情報は公表されていないようである。その他の国でも対応は同様で、日本だけの特異な対応に見える(同種対応の国があるとしても、正当化する理由にはならない)。

公衆衛生上有益な情報は市民の知る権利の対象であるが、その範囲はプライバシー保護のために限局されるべきである。市民としてとりあえず知る必要があるのは、感染者の居住地及び勤務地の情報であろう。自分の主要な行動圏が感染者の行動圏と重なるかどうかは、感染予防策のレベルを自己決定するうえで重要な情報だからである。

それを越えて、患者の発症経緯や詳しい行動経路の情報までは必要ない。また患者間の続柄情報も不要である。感染予防策のレベルを自己決定するうえで、患者同士が親族であるかどうかは関係ないからである。同様に、職業の情報も不要である。

ただし、特定施設等(交通機関も含む)で集団感染が発生したか、発生する蓋然性が高いと認める理由があるときは、当該施設等で感染者と接触した可能性のある人に念のため検査を呼びかけるため、当該施設等の名称を公表すべき場合がある。その場合でも、接触者の氏名が判明している限りは、個別に連絡すれば足り、施設名の公表も不要である。

細かなプライバシー配慮を施すことなく、不要な個人情報まで公開するのは、公衆衛生上の利益という公共の福祉を名目にしたプライバシー侵害である。なぜ、まるで犯罪容疑者の犯行に至る経緯を公表するかのように、感染者の行動履歴を詳しく公表するような特異的な対応をするのか、不可解である。

思うに、これは感染者をあたかも犯罪者のように見立てて、見せしめ、差別する意図からのこと・・・・ではなくて、ただ単に、公衆衛生とプライバシーの線引きを細かく思考する社会的習慣がないことの反映なのであろう。

しかし、そういう思考放棄の習慣は現代にあっては後進的である。先進国を称するからには、公衆衛生とプライバシーの線引きを精密に規準化するべきであろう。そうしなければ、自治体側に悪意はなくとも、結果として感染者が社会的に差別される状況を生み出してしまう。

個人の治療戦略学である臨床医学と異なり、公衆全体の疾病予防を目的とする公衆衛生学は実際、公共の福祉を名目とした病者に対する社会的差別と隣り合わせの微妙な近代学術であり、ハンセン病のように、実際、何十年にもわたる患者差別状況に加担した負の歴史も持っている。

そういう苦い歴史を繰り返さないためにも、改めて、今般のウイルス禍が公衆衛生とプライバシーの線引きを細かく思考する新たな社会的習慣を確立する機会となることを切望するものである。

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共産法の体系(連載第15回)

2020-03-07 | 〆共産法の体系[新訂版]

第3章 環境法の体系

(3)世界地球環境法の基本原則
 前回見たように、世界地球環境法(条約)の根本理念は「持続可能な共存」であるが、この根本理念からすると、世界地球環境法の最大の目的は、生物多様性の保全(回復を含む)となる。それは同時に、同法における第一の基本原則をも成す。
 ここで生物多様性という場合の「生物」には人類も含まれる。従って、人間以外の動植物の保護だけに限局されるものではなく、人類を含むすべての種の保護が目指される。
 次いで、第二の基本原則は天然資源、中でも水の保全である。言うまでもなく水は全生物にとって不可欠の資源であり、地球が多様な生物の共存を可能にしてきた最大の理由は水資源の豊富さにある。
 持続可能性に配慮された共産主義は水をはじめとする天然資源の共同的な民際管理を可能にするが(拙稿参照)、その法的根拠は経済法以前に環境法に置かれる。まさに「持続可能的計画経済」と呼ばれる所以である。
 第三の基本原則は、人為的な気候変動の防止である。これは現今、「地球温暖化対策」の名で国際的な優先課題として取り組まれているところであるが、資本主義体制では温暖化の元凶である資本の活動を法的に制約することができないため、国際的にも国内的にも決断的な合意が形成される見込みはなく、常に微温的な合意にとどまる。人為的気候変動対策は持続可能的計画経済を備えた共産主義において初めて実効的となるだろう。
 以上の三つが、世界地球環境法における三大基本原則である。この三つは言わば目的的な原則であるが、これら三大原則を達成するための手段的な原則として、慎重の原則が明記される。慎重の原則とは、環境的有害性が科学的に証明されていなくても、明らかに非科学的でない限りは、環境負荷的な行動を回避しなければならないという原則である。
 類似の原則として、予防の原則があるが、これはこれは100パーセントではないが、ある程度科学的に予測される環境有害事象の発生を防止するための行動を義務づける原則であるのに対し、慎重の原則は理論上可能的な環境有害事象に対しても、念のための回避策の選択を義務づけるより踏み込んだ原則である。

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共産法の体系(連載第14回)

2020-03-06 | 〆共産法の体系[新訂版]

第3章 環境法の体系

(2)世界地球環境法の根本理念
 共産主義的環境法の統一的法源となるのは、世界地球環境法である。これは世界共同体が制定する世界法の一つであり、現行の国連条約に匹敵するような法規である。
 この世界地球環境法には、各領域圏が制定する環境法典の基礎を成す重要な環境原則が示される。その基盤にあるのは、共存権の法理である。共存権とは、人類を含む多様な生物の共存の権利を意味する。
 その意味では、生命共存権と言い換えてもよいが、それは仏教における殺生戒のような宗教的な観点からの倫理ではなく、人類を含む多様な生物の生存場である地球環境の保持を導く根拠である。
 すなわち、全生物の共存を図るための地球環境の保持ということである。そこから、現今環境保全上のキーワードとなっている「持続可能な開発(発展)」という用語は、「持続可能な共存」へと置換される。
 「持続可能な開発」とは環境的持続可能性と資本主義的経済開発の両立という理念を含意する標語である。それは資本主義経済の枠内で環境保全も図ろうという折衷的な理念であり、環境破壊を招く開発一辺倒の資本主義を修正する原理としての歴史的意義は認め得るが、用語の組成からしても、あくまで「開発」に主眼を有していることは明らかである。
 従って、「開発」を本質的に阻害するような環境保全策、特に資本主義経済の根幹を揺るがす根本的な政策は回避・否定され、環境保全策は常に中途半端でびほう的な手段にとどまらざる得ない。一方で、環境保全を営利ビジネスに誘引しようとする企図を隠さない。
 世界地球環境法はこのような「緑の資本主義」理念とは根底から決別し、環境法の根本理念を多様な生物生存の持続可能性の保障へと革命的に転換することになるのである。

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共産法の体系(連載第13回)

2020-03-05 | 〆共産法の体系[新訂版]

第3章 環境法の体系

(1)環境法の位置づけ
 共産法の体系において、民衆会議憲章に次ぐ枢要性を持つのが環境法である。環境法とは、持続可能な地球環境の保持を目的とする法規制の根拠法である。
 共産法において、環境法が枢要なのは、現代的共産主義の究極的な意義がまさしく地球環境の保全にあるからである。すなわち地球環境の保全を真に考慮した計画的な生産活動と民主的な政治制度のあり方こそが現代にふさわしい共産主義なのであるから、環境法は共産主義の心臓部に当たる法体系となるのである。
 ところで、環境法という法分類自体は、すでに資本主義社会においても現われている。ただ、そこでの環境法は通常、政府が環境政策を実施するための根拠法として扱われており、広い意味の行政法に分類される。従って、その内容は時々の政権の施政方針によって変容する不安定なものである。
 また、一部の環境先進国を除き、環境法は統一的な法典にまとめられておらず、複数法律の継ぎはぎ的な集合体に過ぎない。資本主義における環境法は、資本の活動を過度に制約しない限度で、そのつど制定される個別政策的な補充法に過ぎないからである。
 これに対して、共産法における環境法は、まず世界共同体レベルの世界地球環境法(条約)を統一的な法源としながら、それに則って各領域圏において策定される統一法典である。その位置づけも行政法の単なる一環ではなく、まさに環境法というそれ自体として固有の法体系を成すものである。
 共産主義的な環境法は補充法ではなく、それ以外のあらゆる一般法体系の基礎に置かれ、それらを制約する基礎法であり、その点では憲章に次いで、基本法の一環を成す。このことは、持続可能な地球環境の保持が単なる政策にとどまらず、世界共同体憲章における普遍的人権の支柱を成すことからも、裏付けられる(参照条項例)。
 こうした環境法の根本法源は先ほど言及した世界地球環境法であるが、そこに盛り込まれる原則的な内容については、稿を改めて次回に回すことにする。

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近代革命の社会力学(連載第78回)

2020-03-03 | 〆近代革命の社会力学

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(4)「共和国」から合衆国準州へ
 1894年7月に樹立された「ハワイ共和国」は、アメリカ独立記念日である7月4日に宣言されたように、アメリカへの併合プロセスはいったん頓挫したとはいえ、「共和国」支配層となった革命派がアメリカへの併合の道を追求することを放棄したわけではなかった。
 そのため、憲法もアメリカ合衆国憲法を模倣していたが、先住ハワイ人などのアジア系には公民権を保障しないなど、白人至上の人種差別的体制を正当化するものであり、併合を視野に入れた移行準備体制の性格が強かった。
 初代大統領に就任したサンフォード・ドールは宣教師の息子であるが、ハワイ生まれの白人であり、自身は法律家として、王室の実質的な顧問弁護士となり、カラカウア王により最高裁判所判事に任命されるなど、当初は王室とも友好関係にあった。しかし、最終的には王室を裏切り、白人既得権益層の代弁者となったのである。
 こうした白人系ハワイ「共和国」に対して、当然にも先住ハワイ人層は不満であり、95年にはワイキキでの些細な衝突を引き金に、先住ハワイ人の王党派が武装放棄した。最初で最後となるこの反革命武装蜂起は二週間にわたって続いたが、最終的には武力に勝る政府軍が制圧に成功した。
 この事件は、王党派の象徴的存在であった前女王リリウオカラニを排除する口実にも使われた。彼女は蜂起に関与していなかったにもかかわらず、反乱容疑で拘束され、有罪判決を受けたが、以後、共和国に忠誠を誓い、政治活動に関与しないことを条件に釈放された。
 そうした中、アメリカ側で情勢の大きな変化があった。先に関税法が再改正され、ハワイ産砂糖への関税を免除する互恵制度が復活したため、革命の経済的背景ともなっていた不況が解消されたことに加え、政権交代があり、海洋進出に積極的なマッキンリー大統領が新たに就任したのだった。
 マッキンリーはハワイ併合に消極的だったクリーブランド前大統領の政策を一転させ、ハワイ併合法案の議会通過を積極的に後押しした。折からの米西戦争も追い風となり、当時スペイン領土であったフィリピンの獲得も視野に入れたマッキンリー政権はハワイを東アジアに兵力を送り込む軍事拠点として必要とした。
 こうして、アメリカ側でのハワイ併合プロセスが急展開し、1898年7月に併合法案が上下両院で可決、同月7日にはマッキンリー大統領の署名を経て、正式にハワイのアメリカ併合が実現することとなった。
 ただし、ハワイの扱いは準州という制約的なものであった。準州は正式の州とは異なり、準州民に合衆国正副大統領の選挙権がなく、連邦議会に代表者を送れるものの、投票権は与えられないという制約があった。また準州知事や裁判官も合衆国大統領による任命制とされた。
 ハワイが正式の州に昇格するのは1959年を待たなければならなかったとはいえ、1900年に制定されたハワイ基本法では、先住ハワイ人にも公民権が保障され、従来の白人至上の差別的体制は修正された。ただし、中国系・日系などのアジア系移民の公民権は否定されていた。
 こうして、ハワイ共和革命は、ハワイのアメリカ併合という変則的な形で確定することとなった。このような数奇なプロセスを辿った革命は歴史上も稀であり、ほぼ同時並行的に勃発したフィリピン独立未遂革命とは逆の方向性を持った奇妙な「革命」であった。

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近代革命の社会力学(連載第77回)

2020-03-02 | 〆近代革命の社会力学

十一 ハワイ共和革命:ハワイ併合

(3)共和革命への急進展
 カラカウア王時代に先鋭化した王室を中心とする先住ハワイ人勢力と製糖利権を握る白人移民層の対立関係は、外見上君主制護持派と共和派という政体論のレベルの抗争に見えたが、実のところ、白人層の真の狙いはアメリカ合衆国への併合にあった。
 とはいえ、併合はさしあたり将来のことと見られていたが、それが一気に現実化したのは、カラカウア王時代の末期、アメリカ議会がアメリカ農業にとって不利な関税撤廃条約を実質的に転換する新たな関税法を可決し、アメリカ産砂糖に奨励金を付けたため、ハワイ製糖業界が打撃を受けたことにあった。
 これにより、農地の地価は暴落し、ハワイは不況に陥ったため、白人層のみならず、一部先住ハワイ人の中にすら、アメリカへの併合を求める考えが急速に広がったのである。あるいは、アメリカ側もそうした動きを見越して、関税法改正に踏み切ったとも考えられる。
 こうした経済危機の中、1891年に兄王の跡を継いだリリウオカラニ女王は、まず「銃剣憲法」を廃棄して、王権を再強化することを図った。そこで、93年初頭、女王は先住ハワイ人の請願を受ける形で、新たな憲法草案を閣議にかけるが、否決されてしまう。
 このような女王側の動きに危機感を募らせた親米派は、革命を計画するようになる。そこで、従来からのハワイアン連盟のメンバーらは、新たに革命機関としての「公安委員会」を組織し、宮殿で女王の新憲法構想に反対する集会を開催した。その結果、女王は譲歩し、新憲法制定の延期を表明するに至った。
 しかし、女王のこの宣言も事態を収拾することはできなかった。併合阻止を求める先住ハワイ人側も先鋭化しており、武力衝突の危険が迫る中、アメリカ政府は「アメリカ人の生命及び財産の安全確保」を名目に海兵隊を派遣した。このようなアメリカの露骨な軍事介入のもと、自警団組織のホノルル・ライフル隊が速攻で政府庁舎を制圧し、公安委員会がハワイ王国の廃止と暫定政府の樹立を宣言した。
 十分な兵力を持たない女王側は対抗することができず、アメリカ公使に抗議するのが精一杯であった。しかし、公使の反応は暫定政府支持という素っ気ないものであった。これは、当然にも、アメリカ本国の意向を反映した回答であり、海兵隊の介入を含め、アメリカ政府がこの「革命」の黒幕的存在であることを証明した形である。
 しかし、親米派が望む併合プロセスはすぐには進まなかった。それには先住ハワイ人勢力の強い抵抗ということもあったが、アメリカ側でも政権交代があり、海外膨張に慎重姿勢を見せるクリーブランドが新大統領に就任したことが大きかった。クリーブランドは「革命」におけるアメリカ公使の行動に疑念を抱いており、「革命」そのものも不法なものだったと認識していた。
 そこで、彼はアメリカ公使を更迭し、海兵隊も引き上げさせたうえ、改めてリリウオカラニの復位を模索することとした。ただし、革命家たちを免責するという条件付きであった。「革命」を反逆とみなすリリウオカラニはこれに反対で、本来反逆者を死刑とすべきところ、国外追放にとどめるとの妥協策を示した。
 一方、王党派は暫定政府を承認していた日本の支援を求めるべく、1893年、日本にとって不平等条約の性格を持つ1871年日本・ハワイ修好通商条約の改正を持ちかけた。これを受け、日本は「邦人保護」を名目に海軍巡洋艦をハワイに派遣して、併合の動きを牽制した。
 こうした内外の情勢変化からアメリカ併合のプロセスが障害を来したことを受け、暫定政権派はひとまず併合を断念するとともに、反革命による女王の復位を阻止するべく、1894年7月、共和憲法に基づくハワイ共和国の樹立を宣言したのである。 

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「貴賤結婚」の果て

2020-03-01 | 時評

平民のアメリカ人女性と結婚した英国のヘンリー王子が、今月末をもって王室を事実上離脱することとなっている。英国では、エドワード8世がやはり平民のアメリカ人女性と結婚するために国王を退位した先例すらあるので、さほどの衝撃ではなさそうである。

王または王族と平民が婚姻する「貴賤結婚」は、20世紀に入って、欧州各国王室のほか、日本皇室でも主流化している。19世紀以前の社会常識では「貴賤結婚」はタブー破りであったが、20世紀以降、今日では、王室・皇室(以下、「王室」で代表させる)のような制度を残しつつも、「貴賤結婚」のタブーを解消することが次第に常識化しつつあるようである。

このような「貴賤結婚」の慣習化は階級平等思想の表れなのだろうか、それとも、王族に自分の好きな平民を配偶者に選ぶ権利を与える新たな特権なのだろうか。

素朴に見るなら、前者が妥当のように思えるが、果たしてどうか。「法の下の平等」を憲法原則とするなら、本来的に王室の制度自体が容認されないはずであるが、ある種の政治的妥協の結果、「法の下の平等」の例外中の例外として王室の存在を認めるなら、特権を享受する王族にはそれなりの制約が課せられなければならず、一般市民と全く同等というわけにはいかない。

そうした制約の一つは、「貴賤結婚」の禁止である。つまり王族が配偶者を選択する場合は、海外王室を含む同等の王族または貴族、貴族制度が廃止されている場合は、旧貴族の一員から選択しなければならないということになる。

とはいえ、人としての愛情まで制約することはできないから、王や王族がどうしても平民と婚姻したいと切望するならば、王室を離脱し、自身も平民となることである。その点、国王を退位したエドワード8世の決断は基本的に正しい(ただし、エドワード8世は退位後、降格の形で公爵となり、ヘンリー王子も公爵位は保持される)。

その点、日本の現行皇室制度には、女性皇族に限り、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れるという規定があるため、「貴賤結婚」を認めつつ、皇籍は奪うという形で、ある種の制裁が科せられる。女性皇族にだけ科せられる点で女性差別的という問題もあるが、男性皇族にも同じ制裁を科す改正を施す限りでは、正当な規定である。

ちなみに、日本でも女性皇族の婚約者の素性や経済問題等をめぐり、世間がざわめいているが、婚姻により平民となる人が誰を相手に選択しようと個人の自由であり、周辺がとやかく干渉すべきことではない。

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