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近代革命の社会力学(連載第83回)

2020-03-18 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(5)キューバ独立戦争(革命)との対比
 19世紀末、二次にわたったフィリピンの独立未遂革命は、スペインとアメリカの新旧両帝国による覇権抗争と絡み、カリブ海のキューバの独立運動とも連関していた。ただ、キューバの場合は、革命よりも独立戦争の性格が強く、当連載では個別の革命の事例としては扱わないが、フィリピンの独立未遂革命と対比する形で、簡単に言及する。
 キューバも、16世紀以降、スペイン植民地となり、製糖プランテーション基地として搾取されてきたが、他の中南米諸国とは異なり、独立が最も遅れた。転機は19世紀後半であった。
 キューバの独立戦争も二次にわたるが、第一次はフィリピンに先行する1868年に勃発した。中心となったのは、プランテーション農園主であったカルロス・マヌエル・デ・セスペデスである。セスペデスは自身、支配層の側に身を置く立場でありながら、先鋭な独立思想の持主であり、1868年10月、わずか数十人の同志と自身の農園奴隷を解放した少数の革命軍を組織して、決起したのであった。
 革命軍はスペイン軍の反撃の前に苦戦しながらも、東部や中部を押さえて、中部で共和国の樹立を宣言し、初代大統領にはセスペデスが就いた。こうした経緯は、フィリピンの革命とも似ており、セスペデスは言わば、フィリピンにおけるアギナルドであった。
 この地域的な「共和国」も基本的に革命的独裁であったが、政治的なサバイバル術に長けたアギナルドとは異なり、セスペデスは独裁を批判されて失権し、山中に逃亡・潜伏していたところをスペイン軍に発見され、殺害された。
 こうして、セスペデスが失権・殺害された1873年以降、キューバ最初の共和国はスペイン軍との長期戦に巻き込まれ、最終的には1878年に停戦協定が成立する。勃発から10年、犠牲者20万人という代償を伴う「十年戦争」であった。
 停戦協定の後、キューバでは奴隷制がようやく廃止され、解放奴隷が労働者階級に転化し、没落した農園主が中産階級に落ちる形で、近代的な資本主義社会が形成されるようになるなど、革命に匹敵する社会変革があった。
 このような状況で、1892年4月、中産階級出自の革命家ホセ・マルティが革命党を結成し、新たな独立運動を開始した。95年2月以降、各地で反スペインの民衆蜂起が多発すると、同年4月、マルティは第一次戦争にも参加したベテランのマクシモ・ゴメス将軍らとともに革命軍を結成して滞在先のドミニカ共和国からキューバに上陸し、進軍を開始した。
 マルティが5月に戦死した後も、ゴメスを指揮官とする革命軍はさらにスペイン軍とのゲリラ戦を継続していくが、戦線は膠着状態となった。転機は、98年4月に始まる米西戦争であった。この戦争はアメリカ議会がキューバの独立を支持する決議を採択したことに端を発するものであった。
 この戦争に勝利したアメリカは12月の講和条約で、前回見たように、フィリピンを買収するとともに、スペインはキューバの主権をも放棄し、独立を認めた。その結果、キューバはアメリカの暫定軍政を経て、1902年に独立した。かくして、キューバの独立は米西戦争の結果によって実現したのであった。
 アメリカは独立派を利用しつつ植民地化したフィリピンに対するのは異なり、キューバに対しては独立を支持したが、この「独立」はカッコつきのものであり、実質上は第一次独立戦争後からキューバに進出していたアメリカ資本を土台に、キューバを保護国化し、内政干渉を続けていくのである。こうした対米従属は、遠く1959年の社会主義革命まで不変であった。

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