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近代革命の社会力学(連載第81回)

2020-03-16 | 〆近代革命の社会力学

十二 フィリピン独立未遂革命

(3)1896年第一次独立革命
 1880年代、ホセ・リサールに代表されるフィリピン知識人はジャーナリズムや文学を通じた情宣活動を開始するが、彼らのこの時点での目標は独立には置かれていなかった。にもかかわらず、スペイン当局は彼らを弾圧し、リサールを拘束した。
 リサールは逮捕直前に「フィリピン同盟」という民族団体を結成しており、このことが直接の逮捕理由となったと見られるが、この団体はリサールの逮捕後、穏健派と革命派とに分裂した。このうち後者の革命派の指導者として台頭してくるのが、アンドレス・ボニファシオである。
 ボニファシオは改めて、独立を明確に志向する秘密結社・カティプナンを結成する。しかし、秘密性はすぐに露呈し、スペイン当局の弾圧作戦が開始される。これに誘発される形で、1896年8月末にカティプナンが武装蜂起する。こうして始まったのが、1896年の独立革命である。
 一躍革命遂行組織となったカティプナンは一枚岩の組織ではなく、自身貧困層から出て民衆を代表するアンドレス・ボニファシオに対して、地方名望家層を代表するエミリオ・アギナルドが対抗する形で、階級対立を内包していた。前回見たように、アギナルドらの地方名望家層は革命初動をボニファシオらの労働者階級の決起に頼り、これを利用しようとしていたのである。
 この対立関係は武装蜂起後すぐに顕在化し、96年10月にはアギナルド派が地元カヴィテ州にて分離独立した。この早期の分裂はスペインを利し、独立革命の行方を危うくしたことから、翌97年の幹部会議で両派の和解が目指されたが、結局修復はできず、ボニファシオ派が退席して物別れに終わった。
 この後、ボニファシオ派の反撃を恐れた策士アギナルドは、ボニファシオを捕らえ、処刑したのである。こうして、ボニファシオ派を粛清したアギナルドは、カティプナンの全権を掌握することに成功した。しかし、これが終わりの始まりでもあり、ボニファシオ処刑後、カティプナンはスペイン軍の掃討作戦により北部山岳地帯へと追い詰められていった。
 アギナルドらは山岳地帯で共和国の樹立を宣言するも、象徴的な意味以上のものではなく、間もなくスペイン総督と和平協定を締結し、香港へ亡命していったのである。こうして、1896年革命は挫折した。
 結局のところ、この革命は形式上、カティプナンという単一の革命組織によって遂行されたように見えながら、実質的には地方名望家階級と労働者・貧民階級の同床異夢的な合作にすぎず、初めから分裂していたのである。
 それにもかかわらず、両者が一つの革命組織を共有したことから、96年革命の性格をどう見るかに関して歴史的評価は分かれるが、組織内力学においても、ボニファシオがあっさり粛清されたように、地方名望家層が優位に立っており、96年革命が総体としてブルジョワ革命であったことは否めない。

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