ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第86回)

2020-03-25 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐2〉日露戦争と「血の日曜日」
 19世紀末から20世紀初頭のロシアで台頭した革命集団の担い手はアレクサンドル2世の限定的社会改革の主軸でもあった高等教育制度の整備の結果、誕生した知識人層(インテリゲンチャ)であったが、知識中産階級に属するかれらは社会の少数派に過ぎなかった。そのうえ、帝政側の締め付けも厳しかったから、革命集団が実際に大規模な革命を実行することはほぼ不可能であった。
 そのような閉塞状況を一変させたのが、日露戦争である。当時、ロシアより先に立憲帝政を整備し、東アジアの新興国として急速に台頭していた日本と極東権益を争う羽目になったロシアは、日本軍相手に予想外の苦戦を強いられた。戦争の長期化に伴い、ロシアでは、戦争の長期化に伴い、窮乏が進み、民衆の不満が鬱積していた。
 そうした中で、従来の革命集団とは別筋から、奇妙な民衆指導者が現れた。ゲオルギー・ガポン神父である。彼はコサック出自であるが、伝統的な神学校に進んだ後、近代的な神学大学を卒業して、ロシア正教聖職者となった。そうした点で、近代教育を受けた伝統的な聖職者という新旧ロシア社会にまたがるような存在であった。
 彼は間もなく、当時の首都ペテルブルクで労働者を集め、独自の団体「ペテルブルク・ロシア工場労働者会議」を結成した。この団体は短期間で数千人のメンバーを抱える大組織に発展するが、一介の若き聖職者がこのような大規模な組織化を実現できたことには裏があった。
 実は、この団体は元来、ロシアでもようやく現れてきた労働運動の高まりに対応して、革命を抑止するためにモスクワの秘密警察部長ズバートフが考案した「警察社会主義」とも呼ばれる政策に沿って、警察の資金で組織された官製労働者団体の一つであった。従って、ガポンも秘密警察の内通者にほかならなかった。
 このような舞台裏は後に発覚するが、さしあたりは社会民主労働者党のような社会主義政党が抑圧の中でオルグ活動もままならない中、代替的な労働者団体として表面上は成功していた。意想外だったのは、ガポンが内通者の任務を逸脱して、真剣の革命に打って出たらしいことである。
 日本軍が旅順要塞を落として、ロシア軍が苦境に陥った1905年1月、ガポンはゼネストを指導した。このゼネストはしかし、経済的な要求事項にとどまらず、戦争終結のほか、憲法制定会議の招集、労働者の権利の保障などの政治的要求事項を含んでいた。
 しかし、帝政廃止は求めず、あくまでも皇帝に直訴するという請願運動の形態であったが、ゼネストを越えて皇帝の居城である冬宮へ向かう20万人規模のデモ行進に発展したため、恐慌を来した政府軍が発砲し、数千人と言われる死者を出す惨事となった。
 結局、直訴は実現しなかったが、この事件はロシア史上初めて労働者階級が自らの意思表示を集団的に、かつ近代的な民主主義の思想に基づいて行った出来事であった。同時に、帝政側がこれに対し流血弾圧で応じたことで、それまではロシア民衆の間で広く共有されていた皇帝崇拝が崩壊した瞬間でもあった。
 ちなみに、「血の日曜日」の後、国外亡命したガポンは亡命先で、社会革命党と接触した。彼はこの時、関係者に自らの内通者としての立場を明かし、党員のリクルートをさえ試みたが、かえって党の不信を招き、帰国後、党員によって殺害された。ガポン自身は、二重スパイの活動がロシアを救うと信じていた節があるが、そのような際どい綱渡りは、自らの命を縮める結果となったのだった。

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