ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第88回)

2020-03-31 | 〆近代革命の社会力学

十三 ロシア/イラン/トルコ立憲革命

(2)ロシア立憲革命(第一次ロシア革命)

〈2‐4〉「改革」と抑圧
 民衆革命が進展していく中、当初皇帝ニコライ2世は譲歩する意思を見せず、武力鎮圧方針で臨んでいたが、司令塔なきアナーキーな革命運動をもぐら叩きのように鎮圧することには限界がある中、思想的な影響を受けた専制主義者の叔父ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチが社会革命党テロリストに暗殺されると、身に迫る恐怖から譲歩姿勢に転じた。
 とはいえ、ニコライ2世としては、何とか小幅の改革で切り抜けるべく、当初は新任の内相プルイギン名義で皇帝輔弼機関としての「議会」の設置を柱とする弥縫的な改革策を打ち出したが、その不十分さを民衆に見抜かれ、かえって大規模なゼネストを招く逆効果となったため、改めてより改革に踏み込む皇帝の詔勅として「十月詔書」が発せられた。
 この詔書の起草をとりまとめたのは、ベテラン政治家で日露戦争の全権代表も務めたセルゲイ・ヴィッテであった。彼は皇帝に改革か軍事独裁かの二択を迫り、無用の流血を望まない皇帝から前者の妥協を引き出したのであった。
 こうして、詔書では基本的人権の保障、普通選挙制に基づく独立した議会制度の創設を柱とする改革措置が打ち出された。その内容は近代的立憲主義に沿っており、これにより、ロシアはとりあえず立憲帝政の方向へかじを切ることになった。
 第一次革命は、帝政廃止まで要求する共和革命ではなく、憲法制定要求を中心とする立憲革命であったから、十月詔書によりいちおう革命の目的は達成されることとなり、革命運動は以後、収束に向かった。ただし、12月には第一次革命最後のハイライトとして、モスクワでボリシェヴィキが主導する労働者の蜂起が発生したが、これは死者千人の犠牲を残し、政府軍によって殲滅させられた。
 こうして、帝政ロシアの歴史は新たな段階に進んだのであるが、皇帝とその保守的な取り巻きらは、十月詔書に不満があり、その形骸化を狙っていた。詔書自体は憲法ではないため、改めて制定された基本法(憲法)では、皇帝が全権を握り、議会は皇帝の諮問会議よりも劣位にあるものとされるなど、立憲主義は後退し、日本の明治憲法に近いものとなった。
 それでも、基本法に基づくロシア初の第一議会では、リベラルなブルジョワ政党・立憲民主党を第一党として、皇帝の腰ぎんちゃくと揶揄されたゴレムイキン首相の保守的な政府と対決し、彼を辞職に追い込むなど存在感を発揮した。
 しかし、ゴレムイキンの後任となった内務・警察官僚出身のストルイピンが第一議会を解散し、保守派の躍進を期待して改めて総選挙を実施すると、社会民主労働者党など左派が躍進するやぶ蛇の結果となった。この選挙では、第一議会をボイコットしたボリシェヴィキが方針転換して参加してきたことも左派躍進を後押したのであった。
 しかし、事態を憂慮したストルイピンは実力行使に出て、左派議員の検挙と第二議会の解散を断行した。この1907年6月3日クーデターをもって、ロシア立憲革命は挫折を余儀なくされた。
 この後、ストルイピンは戒厳令下で、革命家らを大量検挙・大量処刑する徹底した弾圧を行う一方で、ある程度の改革を進めるというプロイセンの鉄血宰相ビスマルクにも似た「飴と鞭」政策で、帝政の立て直しを図るのであるが、最終的に、テロリストの凶弾に倒れた。この1911年ストルイピン暗殺事件は、第二次革命へ向けての新たな胎動が始まる合図でもあった。

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