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持続可能的計画経済論(連載第33回)

2018-08-06 | 〆持続可能的計画経済論

第8章 計画経済とエネルギー供給

(1)エネルギー源の民際管理
 およそ高度産業社会がエネルギーを物理的な基盤としていることは、いかなる生産様式にあっても変わらない。しかし、エネルギー供給の理念と方法は、生産様式いかんと密接に関連している。
 その点、資本主義産業社会にあっては、エネルギーは物質的な生産活動の手段にすぎない。すなわち「初めに生産ありき」であって、想定された物質的生産活動に見合うエネルギーを供給しようと試みる。しかも、その生産活動は全体的な計画に基づいておらず、個別資本による利潤追求を目的とした競争的な経営計画の競合であるから、エネルギー供給に限界を設定することを忌避する。
 共産主義的な持続可能的計画経済の発想は、それとは逆である。すなわち「初めにエネルギーありき」であり、環境的持続可能性に配慮されたエネルギー供給計画の枠内で生産活動が展開される。言い換えれば、持続可能的計画経済下での経済計画の前提はエネルギー計画である。
 エネルギーはエネルギー源(ここでは、狭義のエネルギー源、すなわち一次エネルギー源を指す)から生み出されるから、持続可能なエネルギー計画の前提には、持続可能なエネルギー源管理、すなわち持続可能な天然資源管理がなければならない。
 資本主義社会には、そもそも「エネルギー源管理」という発想自体がなく、エネルギー源は枯渇の限界に達するまで恒久的に開発の対象であり、せいぜい天然資源の埋蔵国の政府や国営開発企業による間接的な開発コントロールがなされているにすぎない。
 近年はそうした間接コントロールすらも弛緩し、資源が投機の対象にすらされている。その結果は、石油を中心とするエネルギー源の価格変動による経済不安、そして資源の浪費・枯渇である。
 持続可能的計画経済は、こうした「エネルギー無政府状態」とは対極にあるエネルギー源の民際管理と結びついている。エネルギー源の民際管理とは、石油に代表されるエネルギー源はその埋蔵国に属するという「資源ナショナリズム」の国際常識と決別し、エネルギー源を無主物とみなし、人類全体の共同管理下に置くことを意味する。
 簡単に言えば、「天然資源は誰のものでもない」ということである。ただ、天然資源の民際管理を単なる理念でなく、実際に可能にするためには、地球規模での計画経済化を前提とした効果的な共同管理システムの構築を必要とするが、その詳細は次章の課題とする。


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