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近代革命の社会力学(連載第360回)

2022-01-06 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(3)革命までの過程
 ソモサ家3代目のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領は、当時の憲法上は連続再選禁止とされていたため、1972年にいったん大統領を退任したが、国家警備隊司令官の職にはとどまり、事実上の院政を敷いていた。
 その年末に発生したのが、ニカラグア大地震である。ソモサはこれを奇貨として、国家非常委員会委員長に就任し、全権を掌握した。委員会は災害復旧を目的とする臨時機関であったが、有効に機能しなかったばかりか、ソモサは海外からの義捐金などを着服した。また、救援任務を負う国家警備隊も規律を欠き、壊滅した首都マナグアで略奪を働く始末であった。
 このようなソモサの災害対応の不備、というよりも機に乗じての汚職は国民各層の反発を強め、サンディニスタ国民解放戦線(FSLN)への支持拡大を助長した。その意味では、巨大サイクロン被害が革命の動因となった1971年のバングラデシュ独立革命ほどではないが、1979年ニカラグア革命も、災害が革命の遠因となった事例と言えるかもしれない。
 とはいえ、震災という危機を巧みに利用したソモサの政治技巧も相当なものであり、彼は焼け太りの形で、1974年に再び大統領に返り咲き、一期目以上に独裁を強化、FSLNメンバーの多くを投獄した。
 これに対し、FSLNは人質作戦で拘束中の政治犯を釈放させるという手荒な戦術で組織の防衛を図るが、革命の道筋は見えてこない中、前回見たような組織内の三派閥の分裂が深まった。もっとも、ソモサ政権側が弾圧を強める時勢柄、階級横断的な糾合による即時の蜂起を目指す第三者派が優勢となる。
 革命への最初の動因は1978年1月、保守系の反体制ジャーナリスト、ペドロ・ホアキン・チャモロが暗殺された事件であった。この事件の犯人は不明だったが、ソモサの息子と国家警備隊の関与が疑われたことで、大規模な抗議行動を誘発した。
 騒然とした情勢の中、同年8月にはFSLNのゲリラ部隊が議会議事堂に乱入し、1000人以上を人質に取り、身代金と政治犯の釈放を求める事件を起こした。親族も人質にされたソモサはこの要求に応ぜざるを得なかったが、この一件はソモサ政権の弱体化をさらけ出す結果となった。
 この事件を契機に全土の主要都市で市民が蜂起し、9月以降、政府軍に相当する国家警備隊との事実上の内戦状態に入った。この全土的な蜂起は、FSLNの三派閥を再び融和する契機ともなり、革命へ向けての準備過程となった。
 ただ、こうした内圧だけでは、40年を越えるソモサ一族支配を打破することは困難であった。その点、1977年に発足したアメリカのカーター民主党政権は人権外交を掲げており、たとえ親米政権でも組織的な人権侵害を行う場合は支援しない方針を打ち出していたことが、外圧として働いた。
 ソモサ政権はこの条件にまさに該当したため、カーター政権は早速支援を打ち切ったが、一方で、FSLNの政権掌握は望まず、ソモサの退陣と保守系民主勢力の政権継承を画策した。しかし、このような干渉が、ますますFSLN支持に傾く青年層を中心とした世論を反発させ、保守系民主勢力をFSLNと連携させる契機となる。
 こうして革命運動が幅広い拡大を見せる中、FSLNは1979年6月に全国ゼネストを呼びかけるとともに、保守系を包括した亡命臨時政府として、国家再建評議会の樹立を発表した。同月中に、首都を除くほとんどの地域がFSLNの手に落ちると、7月17日、ソモサはついに辞職し、マイアミに亡命した。
 その後、ソモサが権力を託した大統領代行者もわずか一日で辞職すると、前出の国家再建評議会が正式に政権を掌握し、革命は完了した。これにより、先々代から数えて42年に及ぶソモサ一族支配に終止符が打たれた。

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