ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第370回)

2022-01-25 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(5)ウガンダ革命

〈5‐2〉非政党民主主義とその変節
 アミン政権崩壊後に復活した第二次オボテ政権は、結局のところ、第一次政権の焼き直しであり、否、奪回した権力への執着から、第一次政権当時以上に部族主義に依存し、反体制部族の弾圧作戦を発動して最大推計30万人という大量の犠牲を出すなど、部族主義独裁の傾向を強めたのであった。
 その結果、オボテは求心力を失い、国民抵抗運動(NRM)との内戦にも対処できない中、85年7月、軍事クーデターで失権、再び亡命に追い込まれた。第一次政権時と同様の結末であったが、今回は軍内で自身の出身部族を優遇する人事を行い、他部族将校の反発を招いたことが原因であった。
 クーデター後に成立した軍事政権はNRMとの和平を目指し、ナイロビで停戦合意がいったんはなされるも、合意は履行されることなく内戦は継続、明けて86年1月に国民抵抗軍が首都カンパラを制圧し、革命は成功した。
 すぐにNRM指導者ヨウェリ・ムセヴェニが大統領に就任し、当初は4年間の暫定統治を公約した。この時に構築された新たな制度は、部族主義の抑止を目的とした政党によらない非政党民主主義と呼ぶべきユニークな試みであった。
 すなわち、地方レベルまで多層的に構成された抵抗評議会が新たな代表機関として設置され、政党は禁止されないものの、政党ベースで抵抗評議会選挙に立候補することはできず、すべての候補者は個人単位で立候補するというものである。
 さらに地方の抵抗評議会は政治問題のみならず、経済問題、特に固定価格品の分配のような生活最前線の問題をも所管することとされた。これは直接民主制とは異なるが、西欧式の政党ベースの議会制とも異なる草の根民主主義の実験であった。
 他方、国レベルでの経済政策に関しては、初めからIMFや世界銀行主導の構造調整を導入し、社会主義政策は追求せず、資本主義経済の整備を急ぐ方向を取った。こうした脱社会主義の流れは、アフリカ諸国革命の第三次潮流に共通するものであった。
 このように、上部構造の革新性と下部構造の保守回帰という奇妙なミックスの体制は、ムセヴェニ体制が長期化するにつれて次第に変節していく。元来、抵抗評議会制度は非政党ベースと言いながら、事実上はムセヴェニの党派とも言えるNRMの一党支配制の性格を強めていったからである。
 こうした傾向は、革命直後、前軍事政権が基盤を置いた北部の部族に対するNRMの過酷な報復行動によって惹起され、その後も根強く続いた北部の武装反乱への対抗上からも、体制が次第に統制的な治安管理体制を取るようになっていったこととも関係していただろう。
 2005年の憲法改正による複数政党制の導入はそうした変節の集大成であり、これ以降は、全国に根を張るNRMのネットワークを支持基盤に多選を重ねるムセヴェニの権威主義的な支配が前面に押し出されることになる。
 ムセヴェニは現時点ですでにウガンダ史上最長の36年にわたり連続して大統領の座にあり、この間、建国以来混迷続きだったウガンダに「安定」をもたらした点で、救国革命が成功したことは間違いないが、現時点の到達点は革命性を失い、現代型ファシズムの一形態に変節している(拙稿)。
 一方、ムセヴェニNRM体制は90年代後半以降は対外的な介入戦争にも加わり、とりわけ旧ザイールのモブトゥ独裁政権の打倒やその後に発生した第二次コンゴ戦争に関与するなど、覇権主義的な傾向も見せてきたが、これは同時期のアフリカ諸国革命の第四次潮流の動因ともなっているので、該当章で後述する。

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