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近代科学の政治経済史(連載第3回)

2022-01-09 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ・ガリレイと科学的方法
 近代科学原理に基づく考察の手順、すなわち今日にいわゆる科学的方法には、特定の偉大な創始者が存在するわけではないが、最も早い時期にそれを実践した代表者がイタリア人のガリレオ・ガリレイであったことは確かである。
 ガリレオは有名な地動説裁判のゆえに天文学者として名を残しているが、彼の本来の専門は数学及び物理学であり、各地の大学で数学教授を務め、出身地トスカーナ大公国で大公付き数学者という栄誉ある地位も得ていた。
 次の章で取り上げるように、当時のトスカーナ大公メディチ家は近代科学のパトロンでもあり、とりわけガリレオを子弟の家庭教師に雇うなど、強力に援助しており、黎明期の近代科学には世俗王侯と結ばれた御用学術という側面があった。
 ガリレオが何処で科学的方法論を修得したかについては定かでないが、本業の呉服商のかたわらセミ・プロ的な音響学者として数学的な方法論を開拓していたという父ヴィンチェンツォの影響が指摘される。いずれにせよ、ガリレオは実験に基づく数学的手法を用いた考察、さらには第三者による追試再現の奨励、その前提となる実験結果の積極的な公表という、今日の科学界では常道となっている方法の先駆者となった。
 総じて、ガリレオの方法論は、従来、哲学者によって兼業されていた思弁性の強い自然哲学を哲学から分離し、自然科学という新たな学術分野に整備する先駆けとなったと言えるが、このような方法論は、思弁性の極致でもあったカトリック神学とはいずれどこかで衝突する運命にあったとも言える。
 その点、ガリレオが活動した時代には、プロテスタント運動に対抗するカトリック側による対抗宗教改革が隆起していたことが、迫害の土壌を形成していた。対抗宗教改革の内実は多岐に及ぶが、教皇パウルス4世の時代に導入された禁書目録制度は、近代科学者にとっても脅威となり得る思想言論統制であった。
 禁書目録は、パウルス4世治下の教皇庁によって1564年に初めて公式に定められたが、奇しくも、この年はガリレオの生誕年でもあった。禁書の対象は何と言っても神学に関わりのある思想書が多く、近代科学を特に標的としたわけではなかったが、カトリック神学と近代科学はその方法論が真逆と言ってよいものであり、いずれ科学的著作が禁書指定される可能性は大いにあった。
 禁書目録とともに、教皇庁膝元のローマにも異端審問所が設置され、異端に対する取締りが強化されたことも、黎明期の近代科学にとっては脅威であった。ガリレオは、このような時代に近代科学の開拓者として登場したのだった。

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