ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第369回)

2022-01-24 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(5)ウガンダ革命

〈5‐1〉混迷と救国革命運動の隆起
 ウガンダでは、1960年代の革命を主導したミルトン・オボテの社会主義政策が空転失敗し(拙稿)、1971年のイディ・アミンの軍事クーデターを経て、アミンによるその後の暴虐な軍事独裁統治が1979年まで続く。このアミン時代の詳細は、戦後ファシズムという観点から論じた別稿に譲る。
 アミン政権樹立後、ケニアを経てタンザニアへ亡命したオボテは、権力奪回のため、武装勢力を結成、翌72年にタンザニアの支援の下、同勢力はウガンダへ攻め入るが、無残な失敗に終わった。しかし、この武装蜂起がその後のウガンダ革命運動の礎となる。
 アミン政権は78年に反乱軍が拠点を置く隣国タンザニアに侵攻したが、これが藪蛇となり、タンザニア軍が反撃、反アミンの武装勢力も合流して、戦争となった。アミンはリビアの支援を受けて抗戦したが、傭兵の多いウガンダ軍からは離脱者が続出し、79年4月、アミン政権はついに崩壊、アミンは国外へ亡命した。
 このアミン政権の打倒はタンザニアによる軍事介入の要素が強かったが、ウガンダ側でもオボテのウガンダ人民会議を中心に10を超える反アミン派組織で構成されたウガンダ国民解放戦線(UNLA)が戦い、アミン政権崩壊後、暫定政権を形成したため、この政変には革命に近い要素もあった。
 しかし、部族を背景とした10以上の組織から成るUNLA政権は安定せず、再編された軍が主導するクーデターが発生し、1980年には軍管理下の選挙でウガンダ人民会議が勝利し、オボテは大統領に返り咲きを果たした。
 こうして、第二次オボテ政権が開始されたが、80年選挙を不正と主張するヨウェリ・ムセヴェニがUNLAを離反して独自の武装勢力を結成し、81年以降、第二次オボテ政権の打倒を目指した。
 ムセヴェニはタンザニアで学んだ汎アフリカ主義かつマルクス主義の活動家で、大学時代からゲリラ訓練を受けた戦士でもあった。第一次オボテ政権時代にはその諜報機関に短期間籍を置き、UNLAの執行委員の一人としてUNLA政権の国防相も務めるなど、若くして頭角を現していた。
 彼はUNLAを離反した後、他の反政府組織を統合しつつ、国民抵抗運動(NRM)を立ち上げ、その軍事部門である国民抵抗軍を組織して、オボテ政権に対する武装闘争を本格化させた。これ以降のウガンダは、86年1月のNRMによる首都制圧と革命政権樹立まで、内戦期となる。
 その間、NRMは将来の政権綱領として、民主主義の回復、治安、国民統合の強化、独立の維持、独立かつ統合された自律的経済の確立、社会サービスの改善、腐敗と権力濫用の根絶、不平等の縮小、アフリカ諸国との協力、混合経済体制という10項目を掲げていた。
 これを見る限り、ムセヴェニは、その経歴にもかかわらず、マルクス主義を離れ、混合経済を軸とした脱イデオロギー的でプラグマティックな政策志向を見せており、NRMの本旨は社会主義革命ではなく、アミンとオボテという二人の独裁者に蹂躙されてきた国家の再建を目指す救国革命にあったと言える。

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