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近代革命の社会力学(連載第367回)

2022-01-20 | 〆近代革命の社会力学

五十三 アフリカ諸国革命Ⅲ

(3)ガーナ革命
 ガーナは、1960年代のアフリカ独立の波に先駆けて、1957年、革命や戦争によらず、宗主国イギリスとの交渉を通じて独立を勝ち取った輝かしい歴史を持つ。初代大統領は長く独立運動を率いてきたクワメ・ンクルマであった(別連載拙稿)。
 大統領としてのンクルマは、非同盟主義と汎アフリカ主義に基づき、内政面ではアフリカ社会主義を推進し、農業集団化や国有企業を通じた工業化を主導しようとしたが、いずれも機能しなかった。さらに、部族主義を排除するため、部族単位での野党を弾圧し、翼賛的与党・会議人民党による独裁支配に陥った。
 そうした中、ンクルマが外遊中の1966年、ンクルマの外交姿勢を親東側陣営に傾斜しているとみなし不満を抱くアメリカの支援を受けた将校団によるクーデターが発生、ンクルマは失権した。
 69年には、民政移管のための大統領選挙が実施され、有力野党政治家のコフィ・ブシアが当選、脱ンクルマ路線を展開するも、出身部族優遇などンクルマが排除した部族主義の台頭、主産品カカオの国際価格の下落などが重なり、民衆の信を失う中、1972年の軍事クーデターで失権した。
 この後、ガーナでは主導権を握った軍部内の権力闘争を反映したクーデターが相次ぐ政情不安に陥るが、四度目のクーデターが1979年6月に発生する。このクーデターを率いたのは、当時31歳のジェリー・ローリングズ空軍大尉であった。
 ローリングズは当時、自由アフリカ運動という軍内地下組織の一員であり、79年5月に政府の腐敗や社会的不平等を訴えてクーデタ決起したが失敗し拘束、死刑判決を受けて獄中にあったところ、翌月、獄外の同志将校の再クーデターによって救出されていた。
 ローリングズは青年将校を中心とした国軍革命評議会を樹立し、三人の元国家元首を含む軍事政権高官のほか、300人余りの旧体制高官を即決処刑した。こうした過激な象徴的手法から、しばしばこの79年6月クーデターが革命(6月4日革命)と称されることもある。
 たしかに、この政変は旧体制幹部の大量即決処刑という手法を含め、前回まで見た翌年のライベリア革命に影響を与えた可能性はあるものの、ライベリアの人民救済評議会とは異なり、ガーナの国軍革命評議会は実質的な政策を展開することなく、79年9月には民政移管の大統領選挙を実施し、権力を移譲したため、力学的に見れば、これは革命ではなく、クーデターの範疇に属する。
 むしろ、実質的な革命は、ローリングズが再び決起し、文民政権を打倒した1981年12月末日の政変である。ローリングズが再決起した動機として、権力移譲した文民政権の指導力不足や変わらぬ政治腐敗への不満があったとされる。
 二度目の決起の後、ローリングズを議長とする軍民混合の暫定国防評議会が樹立され、93年の民政移管まで、この体制が継続した。とはいえ、その政策展開は、初期とその後とで180度異なるものとなった。
 初期は輸出入の国家管理や農産品の価格統制を軸とする社会主義政策が志向され、部分的にはンクルマ時代への回帰となった。また大衆動員組織として、労働者防衛委員会や人民防衛委員会などの新たな革命的組織が立ち上げられた。
 しかし、農産品の価格統制は人口の大半を占める農民にとっては収入減をもたらす失策となり、経済の国家管理も失敗する中、1983年には構造的な経済危機に直面する。ローリングズはここでプラグマティックな政策転換を断行し、一転して市場経済化の構造調整策を導入した。これは、アフリカ諸国における同様の構造改革策の先駆けとなった。
 この構造転換に成功し、経済成長が軌道に乗ると、東欧・ソ連圏での民主化の波を受け、ローリングズは1991年から民政移管準備に入り、翌年には複数政党制に基づく議会選挙及び大統領選挙を実施、自身が結党した国民民主会議を基盤に、民選大統領として1993年から2001年まで二期四年を務めて退任した。
 このように、ガーナ革命は社会主義経済から資本主義の構造調整経済へ、さらに軍事政権から文民政権へという上下社会構造転換の全過程をローリングズという一人の指導者のもとで履行した点で、極めて特異なものとなっている。
 さらに、21世紀のポスト・ローリングズ時代のガーナは、社会民主主義を標榜する国民民主会議と保守系の新愛国党の二大政党による政権交代が根付き、アフリカ全体でも最も政情が安定した状況にあることも特筆すべき点である

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