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9条安全保障論(連載第3回)

2016-07-16 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

二 絶対的解釈と相対的解釈

 9条の解釈に際しては、絶対的解釈と相対的解釈の対立があるが、私見はそのいずれに対しても批判的である。そこで、それぞれの解釈の内容とその問題点について、検証してみたい。

 まず絶対的解釈とは、9条の規範内容を絶対的に受け止め、完全非武装を要求する趣旨と解釈する立場。これによれば、現行自衛隊のような国家武力の保有は端的に9条に違反することになる。このような解釈によった場合、仮に日本が海外から侵略されたときにいかなる対応をするかについては、見解が分かれ得る。
 一つは、全面的な無抵抗主義である。これは倫理的に非暴力を徹底するもので、侵略者に対しても抵抗せず、服従することをよしとする。倫理的な首尾一貫性という点では崇高な思想に基づくが、現実政治において実践することが極めて難しい立場でもある。
 もう一つは、侵略に対しては国家武力ではなく市民的抵抗で臨むとする立場である。その場合、抵抗の内容として、占領軍に対する非協力・サボタージュといった非暴力手段に限るならば、第一の無抵抗主義に近づくことになる。
 そうではなく、民間義勇軍を組織して、占領軍に武装抵抗することをよしとするなら、民間義勇軍のような市民的武装組織の保持は9条に違反しないということになる。ただ、そのような組織をいかに制度化し、訓練・維持していくのか、また占領軍に対する戦略的実効性に関しても議論の余地があろう。
 さらにもう一つは、外国軍に防衛を委託するという立場である。これは現に一部の小国が採用している政策であり、自衛隊の前身たる警察予備隊が創設されるまで占領下の日本でも採用されていた立場だが、外国軍に全面的に依存するなら、それは事実上軍を外国と共有し合っているに等しくなり、9条との矛盾性も生じかねない。
 こうした絶対的解釈は、戦争の傷跡と記憶が生々しかった憲法制定初期には決して少数意見ではなかったはずだが、間もなく自衛隊が創設され、既成事実として国内的・国際的にも定着してくると、こうしたある種の理想主義的な解釈は退潮し、現在では少数意見にとどまっていよう。実際、平和運動関係者なども、「自衛隊違憲論」はほとんど口にしなくなっているのではないか。

 これに対して、相対的解釈は、9条の規範内容を相対化し、その要求水準を緩める解釈である。これは、前回指摘したように、本来は一続きにしてもよかった9条が条文を二項に書き分けたことに付け入って、技巧的な解釈を施そうとする企てである。
 その際、国際平和の希求を目的とする第1項は精神規定として読まれ、この条項は未来に向かって恒久平和を希求しているかもしれぬが、戦争の可能性が消え去ってはいない現実世界にあって、国家が保有する自衛権まで否定する趣旨ではないと解釈する。
 そうしたうえで、軍の不保持と交戦権放棄を定めた第2項にあっても、第1項が容認している自衛権行使に必要な国家武力の保持及びそれによる自衛権の発動は禁止されないと解釈するのである。これによれば、自衛隊の存在と自衛隊による自衛権の行使は9条に違反しないことになる。
 ただ、行使可能な自衛権の範囲に関しては議論が分かれ、かつては日本国単独での個別的自衛権に限られると理解するのが多数であった。しかし、同盟国にも応分の防衛負担を求める同盟主米国の意向や冷戦終結後の世界情勢の変化といった外部環境の変化に対応して、集団的自衛権を認めるべきとの意見も浮上してきた。そこから、「限定的な集団的自衛権」である限り、9条に違反しないとの解釈が現われ、昨年これに基づく立法化がなされたことは記憶に新しい。
 かねてより、こうした相対的解釈には解釈に名を借りた「解釈改憲」であるとの批判が向けられてきたが、蟻の一穴のたとえどおり、個別的自衛権を認めたところから9条の空洞化が進み、ついには集団的自衛権の解禁に至って、9条の規範内容はほぼ流失したと言える段階まで来たわけである。
 元来、相対的解釈は9条、中でも軍の不保持と交戦権の放棄を定める第2項を連合国占領軍によって強制された武装解除条項としてこれを排除したい衝動に根ざしているので、最終的には改憲による第2項の廃止が目指されている。

 以上の全く正反対方向の二様の解釈それぞれをひとことで批評するなら、絶対的解釈は思弁的、相対的解釈は作為的と言えるだろう。ただし、相対的解釈者の胸中に再軍備によって国家的尊厳を取り戻すといった思弁が働いているなら、相対的解釈にも思弁性が隠されていると言えるだろう。

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