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「女」の世界歴史(連載第38回)

2016-07-25 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅱ部 黎明の時代

第四章 近代化と女権

[総説]:女権思想の展開
 女権の黎明期に現れた女帝たちは、それぞれの仕方で画期的ではあったが、所詮は男性権力の代替的な立場に過ぎず、彼女らの存在によって女性全体の地位が向上する効果は持たなかった。
 女帝に象徴されるような女性の権力ではなく、より普遍的な女性の権利という意味での女権思想が芽生えてくるのは、市民革命期以降のことである。それは、おおむね近代の本格的な始まりと一致している。
 とはいえ、当初は進歩的な啓蒙思想においても、女性の権利はまともに想定されていなかったが、18世紀の啓蒙思想は女性の自己啓発をも促進し、啓蒙専制女帝のような権力者のみならず、女性知識人という新たな階層を生み出した。
 その中から、女性の権利向上を意識的に追求する近代的なフェミニズムの思想が誕生し、近代以降の女性運動の理論的な軸として定着していく。このような流れは人権思想発祥地である西欧でまず発したが、その後、東西アジアにも広がりを見せていく。
 そうした流れと合わさる形で、近代国家における新たな女性権力として、西欧を中心に立憲君主型の新しいタイプの女王も出現してくるのが19世紀の状況である。
 他方では、産業革命以降、女性の労働参加が飛躍的に拡大し、女性は勃興する資本主義経済において不可欠の労働力となっていった。この流れは、思想の力以上に、女性の政治参加を求める運動を促進していったであろう。

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(1)市民革命と女性

 市民革命といっても、その嚆矢とみなされる17世紀英国における二つの革命、すなわち清教徒革命と名誉革命は、主として宗教問題を争点とする革命であったため、女性の地位にはほとんど何の影響も及ぼさなかった。
 ただ、女性権力という観点では名誉革命後、テューダー朝エリザベス1世以来となる女王メアリー2世がオランダ総督から招聘されたオランダ人の夫ウィレム(ウィリアム3世)とともにステュアート朝の共同統治者となったが、彼女は補佐的な役割が強く、かつ夫に先立って没した。
 女性の権利としての女権が本格的にクローズアップされるには、18世紀末のフランス革命期を待つ必要があった。そのフランス革命においても、主役は圧倒的に男性陣であったが、女性たちも影ながら参画していた。
 特に革命の導火線となったベルサイユ行進では、折からの食糧品の高騰に直面したパリの主婦たちが「パンをよこせ」のシュプレヒコールを叫び、宮殿と議会へ直訴に赴いたように、革命の口火は平民階級の女性たちが切ったのであった。
 当時の国王ルイ16世とその妃マリー・アントワネットは国民の生活を省みない特権的贅沢三昧の象徴とみなされており、特にマリー・アントワネットは「パンがなければブリオッシュを食べればよい」と言い放ったとされるが、この発言は事実無根であり、実際の彼女は慈善家的な顔を持っていたことが判明している。
 とはいえ、ベルサイユ行進に始まる革命は、まずルイ16世が人権宣言を承認させられることで、第一幕を終える。正式には「人間と市民の権利の宣言」と題されたこの憲法文書は、文言上はジェンダー平等に読めるが、実際のところ、人権享有主体として専ら男性を想定したものだった。
 このことを鋭敏に指摘し、対抗上「女性および女性市民の権利宣言」を作成・公表したのが、近代フェミニズムの先覚者オランプ・ド・グージュ(本名マリー・グーズ)であった。「女性は生まれながらにして自由であり、権利において男性と同等である」に始まるこの対抗的宣言において、ド・グージュは史上初めて女性の権利を簡潔な表現で定式化してみせたのであった。
 しかし、今日的には穏当な内容にすぎないド・グージュ流フェミニズムは当時、過激な危険思想とみなされ、革命政権の主導権を握ったジャコバン派からは敵視された。政治的にジロンド派寄りだったド・グージュ自身、ジャコバン派の恐怖政治に批判的で、ルイ16世夫妻の処刑にも反対したことから、王党派の烙印を押され、断頭台へ送られる運命となった。
 ジャコバン派が失墜し、革命が終息に向かうと、女性の議会傍聴禁止、集会禁止などの反動政策が現れ、仕上げのナポレオン法典では女性の従属的地位と法的無能力が明記されることとなり、女性の権利は抑圧された。
 結局、女性の権利に関する限り、市民革命は成果を生まなかった。しかし全く無意味であったわけではなく、近代的なフェミニズム思想の礎石が置かれたのも、市民革命を通じてであったこともまたもたしかである。

補説:アメリカ独立革命と女性
 新大陸側での市民革命という性格を持っていたアメリカ独立革命は、宗主国との戦争という形態を取ったため、フランス革命以上に男性、とりわけ軍人の主導性が強かった。しかし、ここでも独立戦争の引き金となる茶法への抗議行動ボストン茶会事件に触発され、51人の女性たちが起こした1774年のイーデントン茶会事件のように、革命の導火線を女性たちが引いていたことは注目される。
 また、マーシー・オーティス・ウォレンのように、当時はまだ珍しかった女性政論家として、革命を鼓舞する政治的著作や助言を通じ、後に初代大統領となるジョージ・ワシントンをはじめとする男性革命人士たちに影響を与える女性もいた。
 開戦後、女性たちは戦費調達や前線慰問など「銃後」の役割に回ることが多かったが、少数ながら戦闘に参加した女性たちも存在する。その中には男装で通した者もいた。その他、諜報員を務めた女性もおり、女性は独立戦争そのものにも少なからず関与していた。
 しかし結局、アメリカ独立革命で唱えられた自由や平等も、(白人)男性のものであることが暗黙に合意されており、独立達成後の合衆国政府において女性の解放は課題となり得なかった。よって、慎ましやかな内助の功に徹していた初代大統領夫人マーサ・ワシントンはアメリカ人女性の鑑として、まさにファーストレディであった。
 マーサとは対照的に、第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズは女性の権利を主張し、夫の在任中、政治にもしばしば介入を試みたため、「ミセス大統領」と揶揄された。アビゲイル夫人が望んだアメリカにおける女性解放は、新興国として資本主義的発展を遂げていく19世紀の産業革命下で、労働運動を一つの動因として進んでいったであろう。

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