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戦後ファシズム史(連載第45回)

2016-07-05 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

2‐8:中国の場合
 中国は、旧ソ連が解体した後もマルクス‐レーニン主義を標榜する共産党支配体制を堅持し、今日まで持続している。そのため、中国を現代型ファシズム体制の一例として挙げるのは、いささか奇妙なことと受け取られるであろう。
 しかし、興味深いことに、共産党中国の建国者毛沢東は、中国において「短くて数年か十数年、長くて数十年で、不可避的に全国的な反革命の復辟があらわれ、マルクス‐レーニン主義の党は修正主義の党に変わり、ファシスト党に変わり、全中国は変色するだろう」と意味深長な予言を残している。
 毛がこう予言したのは、1963年である。当時はいわゆる文化大革命(文革)の前夜であり、毛が文革を発動した背景にも、鄧小平ら「走資派」の台頭による「変色」への危機感があったと考えられる。しかし、文革はファシズム体制下での人道的惨事にも匹敵する大量犠牲を出す中国版大粛清に終わった。
 文革が収束し、毛が没した76年以降、いわゆる「改革開放」の修正主義を経て、80年代には政治的にも若干締め付けが緩和されるリベラルな時代を迎えるが、それは東欧社会主義圏における民主化革命とも呼応する学生らの体制変革要求を招き、89年の天安門事件につながる。
 この民主化運動の武力弾圧を経て再編強化された中国共産党体制は、93年には憲法改正により「社会主義市場経済」を掲げて、市場経済化路線を明確にした。これを画期として、以後の中国では、マルクス‐レーニン主義や最終目標とされてきた共産主義社会の建設は事実上棚上げされ、資本主義的経済開発に重点を置いたある種の開発独裁的な方向に舵を切った。
 この新規路線においては、天安門事件以来の民主化運動抑圧と厳格な言論統制、チベット人など少数民族の分離禁止を通じた全体主義的社会管理が徹底される一方、経済的には社会主義的統制が緩和され、ある種の資本家・富者の存在を容認するという二重的な政策が採用されてきた。
 イデオロギー上はマルクス‐レーニン主義や毛沢東思想の教義さえも棚上げされる反面で、90年代からは愛国主義が強調されるようになり、2000年代に入ると「反日暴動」のような愛国的民衆騒乱も発生するようになった。その延長上で、毛時代及び鄧実権時代の反覇権主義的な外交方針を転換し、対外的な関係でも領域拡大を「核心利益」として追求する覇権主義的な傾向を見せ始め、周辺諸国との摩擦を生じている。
 こうした新規路線下でも、共産党の支配は固守されており、完全にファシスト政党に置き換わったわけではないが、実態として、共産党は毛の予言どおりのファシスト政党化を来たしているのではないかと見ることもできる。
 そのように見た場合、新規路線体制は、ファシズムを綱領に掲げない政党を通じた不真正ファシズムの特殊類型と考えられる。このような転回は、毛の没後に復権し、実権を掌握した鄧小平の指導下、天安門事件をはさんで93年に発足した江沢民政権から生じたと一応想定できる。
 その後、胡錦濤から習近平へと継承されてきたこの体制は、総体として管理ファシズムの亜種であると考えられるが、経済開発に傾斜していることから、開発ファシズムの性格も併せ持っている。ただ、経済開発・成長が一区切りした観のある現行習近平政権下では、全体主義的な社会統制が一段と強められており、管理ファシズムとしての性格がいっそう濃厚に発現してきているとも言える。
 こうして、毛の予言は実際、数十年を経て的中したように見えるが、こうした共産党のファッショ化=「共産党ファシズム論」は一つの仮説であり、中国当局は決して自認しないし、中国に批判的な論者も同意しない可能性があることは付言しておきたい。

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