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「女」の世界歴史(連載第39回)

2016-07-26 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(2)産業革命と女性

 産業資本家のようなブルジョワ階級が社会の主導権を握る時代をもたらした市民革命と相即不離の関係で同時並行的に進行していったのが、周知の産業革命であった。
 「機械が筋力をなくてもよいものとする限り、機械は筋力のない労働者・・・・・・・を充用する手段となる。だからこそ、女性・児童労働が機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!」
 『資本論』のマルクスがこう書き付けたように、産業革命は働く女性を増大させた。それまでの熟練した力仕事を要する手工業から、機械化された工業が主流化するにつれ、肉体的条件に恵まれない非熟練の女性労働力が望まれるようになったからである。女性にとって最初の主要な職場は、紡績・織物工場であった。
 こうして自ら労働し賃金を得て、家計を支えるようになった女性たちの家庭内での地位は向上した。この変革は、市民革命における女権思想の影響以上に、女性全体の地位向上にも貢献したと言える。
 とはいえ、女性労働者たちは低賃金・長時間労働を強制される劣悪な労働環境に置かれていたが、産業革命発祥地英国では、19世紀に入り、工場法の整備を通じて労働時間の短縮をはじめとする労働基準の強化が徐々に進んでいった。
 こうした労働基準の改善は労働運動の成果でもあったが、労働運動もまた男性中心主義傾向を免れなかった。産業革命期の女性自身による労働運動の嚆矢は、英国ではなく、米国に現れた。
 米国では、1824年に女性労働者による最初のストライキが記録されており、女性の労働運動が早くから活発であったが、この流れは1844年、10時間労働を要求するマサチューセッツ州の織物女工たちが結成したローウェル女性労働改革協会につながる。これを指導したのは、自身も女工の一人で、後に米国の女性労働運動家の草分けとなるサラ・バグリーであった。
 米国では、ローウェル協会が結成された4年後の1848年には、ニューヨーク州で最初の女権会議(セネカフォールズ会議)が開催された。ここでは、主催者の一人で、後に米国における女性参政権運動の先覚者となるエリザベス・スタントンがアメリカ独立宣言に対抗して起草した「すべての男女は平等に造られた」と宣言する「所感宣言」と、男女平等を達成するための諸決議案が採択された。
 米国における女性運動の出発点とも言われるセネカフォールズ会議を契機に、1850年から南北戦争直前の1860年までの毎年、全米女権会議が開催されるようになり、米国における女権運動の支柱となった。19世紀後半になると、女子教育の発達により、中産階級女性を中心に有識女性が増大したことも、女権運動を深化させていく。こうして、米国では労働者階級女性の労働運動が中産階級女性主体の女権運動を触発するような形で、女性運動が展開されていった。
 産業革命が西欧から海を超えて新大陸にも広がる中、労働を通じて社会参加し始めた女性たちが次に目指すのは、参政権の獲得であったが、これにはなお高い壁が立ちふさがっていた。

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