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戦後ファシズム史(連載第46回)

2016-07-19 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

3:イスラーム・ファシズム
 
イスラームとファシズムは、水と油ほどではないが、直接に結びつくことはないというのがおそらく現在でも通説と考えられる。しかし、現代型ファシズム論においては、必ずしもそうではなく、イスラーム・ファシズムと呼ぶべきいくつかの事例を抽出することができる。
 元来、団体を意味するfascioに由来するファシズムとは国家主義と完全なイコールではなく、全体主義的共同体主義の謂いであるところ、イスラーム主義にあっても、そこでは西欧的な国家よりも、イスラーム信仰で結ばれた共同体=ウンマ(umma)の樹立が志向される。
 ummaとfascioは互換性があり、もしummaの運営を機能的な国家組織を通じて行なうならば、そこにイスラーム・ファシズムの成立する余地があることになる。そうした意味でのイスラーム・ファシズムの先駆的な事例は、1979年のイスラーム革命で誕生したイランの新体制であっただろう。
 イラン革命は、それ以前、イランの西洋近代化を絶対王政的な手法で上から主導してきたパフラヴィー王朝体制を打倒し、イスラーム神政体制を樹立したことで、20世紀後半の世界に衝撃を与えた出来事であった。
 この新体制の指導者アヤトラ・ホメイニは、シーア派(十二イマーム派)の高位聖職者―正確には「法学者」であるが、世俗法学者と区別するため、「聖職者」と表記する―であり、従って、革命体制もシーア派教義に基づいて構築されていったが、彼には現実主義者としての一面があった。そのため、この体制はしばしば「イスラーム復興主義」とも称されながら、単なる宗教反動ではなく、近代国家の現実にも適応しつつ、共和制の下でカリスマ的なイスラーム聖職者を頂点とする全体主義的な国家運営が目指された点で、ファシズムの特徴を備えていた。
 このような体制がイスラーム少数派のシーア派にまず現れたのは、同派では第四代正統カリフであったアリーとその子孫のみが資格を有するとされるウンマの最高指導者イマームという概念を擁するためと考えられる。イマームは現在、「隠れた」状態にあるが、ホメイニの理論によれば、彼自身のような権威ある高位聖職者が終末に再臨するとされるイマームを代行して国家統治に当たるべきものとされる。
 このイスラーム・ファシズム体制は、イラン革命時に結成されたイスラーム共和党(87年に解党)を政党的な基盤とし、同党は革命後の体制防衛装置として設立された革命防衛隊を軍事部門としてホメイニ指導体制を支えたため、これはほぼ真正ファシズムの類型に該当するものだったと言える。
 ホメイニによる指導体制は革命後から同師が死去した89年まで約十年にわたって続いたが、その実態は高度の権威主義的統治であり、この間、宗教的規律に基づく厳格な社会統制と、旧体制要職者や世俗主義者、社会主義者らに対する弾圧・大量処刑が断行された。
 もっとも、イランのイスラーム・ファシズムはホメイニの個人的な権威に支えられている面が強かったことから、彼の没後、後継者となった弟子のハメネイの指導下では、神政体制枠内での漸進的な民主化が進行することによって、徐々に脱ファッショ化されていき、今日のイラン体制は保守派と穏健派、改革派の間で擬似的な政権交代現象も見られる半民主主義と言うべき独自の体制に移行していると評し得る。
 他方、シーア派のような最高指導者概念を持たない多数派スンナ派の側では、イラン革命体制に匹敵するような体制は見られなかったところ、89年軍事クーデター後のスーダンを皮切りに、イスラーム・ファシズムとみなし得る体制がいくつか出現してきているので、次回以降に検討することとする。

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