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「女」の世界歴史(連載第35回)

2016-07-11 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(2)マレーの女性君主たち

 欧州の近世帝国で女帝が現れ始めた時代に前後して、パタニとアチェという東南アジアの二つのマレー系有力港市国家で、連続的に女王が出現したことがあった。両国は当時イスラーム化されていたため、これら女王はイスラーム圏では稀有の女性君主ということになる。
 この時代、イスラーム圏の東の辺境に当たる場所で連続的に女性君主が輩出された理由は明らかでないが、大航海時代以降、西洋列強の進出に直面する中、これらマレー系港市国家にも権力再編の必要性が生じていたということが想定できる。
 このうち今日のタイ深南部に位置したパタニ王国は周辺諸国の中でも早くからイスラーム化した先駆国であったが、港市国家としては先行のマラッカが16世紀初めにポルトガルにより滅ぼされて以降、イスラーム商人の交易中心がパタニに遷移したことで、繁栄するようになった。
 そうした中、王室の内紛を経て1584年に即位した最初の女性君主であるラトゥ・ヒジャウは、その30年余りの治世で、ポルトガル、オランダなど西洋列強から購入した西洋式兵器によりパタニを宗主的地位にあったタイのアユタヤ朝から防衛しつつ、西洋列強との貿易、さらに豊臣→徳川時代初期の日本との朱印船貿易も推進し、パタニをマレー半島最有力の貿易国に押し上げた。
 こうした強い指導力を発揮した点で、彼女は近世女帝的な性格を最も帯びていたと言えるかもしれない。ラトゥ・ヒジャウが1616年に没した後も、ラトゥ・ビルとラトゥ・ウングという二人の妹が連続して王位を継ぎ、さらに後者の娘ラトゥ・クニンが継承した。 しかし、ラトゥ・クニンの時代になると、オランダはすでに貿易拠点を台湾に移転し、日本も鎖国政策に入っており、パタニの貿易中心としての地位は著しく低下していた。
 加えて、勢力を回復したアユタヤ朝の脅威も増すなか、ラトゥ・クニンは隣国クランタン王国の介入的クーデターにより追放され、敗走中に死亡したとされる。彼女の死をもって、パタニ王室は断絶し、以後はクランタン系の王朝となる。
 このパタニと商業上のライバル関係にあったのが、現インドネシアのスマトラ島北端に位置したアチェ王国である。パタニの女性君主たちは、ラトゥ(首長)とのみ称し、スルターンを名乗らなかったが、アチェの女性君主たちはスルターンを名乗り、明確に女性スルターンとして君臨した。
 アチェ最初の女性スルターンは1641年に即位したタジュ・ウル‐アラムである。彼女は先々代スルターンの娘にして、行政改革によって王権を強化した先代イスカンダル・サニの王妃から即位した。その経緯は不明だが、イスカンダル・サニの改革に反発した貴族層の反改革として、実権を持たない女王が望まれたとも言われる。
 実際、タジュ・ウル‐アラムはほぼ象徴的な存在にとどまり、政治の実権は世襲制の地方首長に握られていた。しかし、彼女は当時の年代記やオランダ人の証言によっても、精神的に気高く、尊敬に値する人物とされ、30年以上に及んだその治世は平和と繁栄を享受したとされる。
 当時のアチェは貿易でも栄えたが、それ以上にイスラーム教学・文学における東の中心地としての声望を高め、タジュ・ウル‐アラムは統治者としてよりは文化的な後援者として事績を残したようである。
 タジュ・ウル‐アラムの没後、奇しくもパタニと同様、さらに三代続けて女性スルターンが継ぐが、最後のザイナトゥッディーン・カマラット・シアの時代には、女性スルターンへの不満が高まっていた。
 最終的に、1699年、女性スルターンはイスラムの原理に反するとする聖地メッカの裁判官からのファトワに基づき、カマラット・シアは廃位され、アラブ系末裔の男性スルターンに取って代えられた。こうして、アチェでも四代60年近くにわたって続いた女性スルターンの時代は終わりを告げたのである。
 同時に、パタニとアチェの女性君主時代の終わりは、両国が次第に衰退し、やがて前者はタイの、後者はオランダの支配に下る時代の始まりでもあった。なお、アチェはオランダから独立したインドネシアの一部として、最終的にインドネシアに組み込まれることとなった。

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