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「女」の世界歴史(連載第37回)

2016-07-13 | 〆「女」の世界歴史

第三章 女帝の時代

(4)二人の啓蒙専制女帝

 ロシア・ロマノフ朝のエカチェリーナ1世、アンナ、エリザヴェータまでの三女帝は、それぞれピョートル大帝の皇后、姪、娘であり、いずれもピョートル大帝の身内という立場からの登位であったが、ロシア四人目かつ最後の女帝となるエカチェリーナ2世は全く別筋からの登位である。
 エカチェリーナ2世は、ドイツの小さな領邦君主の家系に生まれたドイツ人であり、ロシア人ですらなかったが、政略婚により父方がやはりドイツ人のロシア皇太子ピョートルに嫁ぎ、ロシアに渡った。
 エカチェリーナは夫がピョートル3世として即位したことで皇后となったが、幼少期から高い教育を受け、教養人だったエカチェリーナは幼児性が抜けなかったとされる夫とは全く性格が合わず、早くに家庭内別居状態に陥っていたため、公式には夫妻の子とされるパーヴェル皇太子も男性遍歴の多かったエカチェリーナの不倫の子とする風評があった。
 その真偽はともかく、エカチェリーナ以上にドイツ的な夫ピョートル3世は親プロイセンの立場を公然と示したことで、ロシア国内では不評であった。そうした状況下で、反ピョートル派が動き、クーデターでピョートルを廃位し(後に不審死)、エカチェリーナ皇后を帝位に就けたのである。
 宮廷クーデターによる女帝の登位は、これで最初の女帝エカチェリーナ1世、エリザヴェータに次いで三度目であり、ロシアにおける女帝が宮廷内の派閥抗争・権力闘争の反映であることを示している。
 こうして史上四人目の女帝となったエカチェリーナは思想上は啓蒙思想の信奉者であり、ヴォルテール、ディドロなど当代一流のフランス啓蒙思想家と文通していたことから、しばしば啓蒙専制君主の代表格とされるが、統治者としてはロシア社会の保守性・後進性に制約され、必ずしも啓蒙的な統治を展開できなかった。
 実際、大規模な農民反乱プガチョフの乱を徹底的に粉砕し、悪名高い搾取的なロシア農奴制は彼女の治世で頂点に達した。また晩年に勃発したフランス革命に際しては、反革命国際同盟にこそ参加しなかったものの、国内的には革命の波及を防ぐべく、思想統制を強化した。
 他方で、37年に及んだ長い治世は安定し、対外的には二度の露土戦争に勝利し、帝国領土を東方に拡張したほか、三度のポーランド分割に参加し、自由主義的なポーランド‐リトアニア共和国を解体した。
 こうして、エカチェリーナ2世はロシア帝国を近世ヨーロッパ列強の一つに押し上げる基礎を築いた名君となるが、彼女の意に反して後継者となったパーヴェル1世は幼少期からエリザヴェータ女帝の下で養育され、生母エカチェリーナとは疎遠、不和であった。
 そのため、即位後はエカチェリーナの政策を否定し、しかも帝位継承法を定め、男系が断絶しない限り女子の帝位継承を禁止したため、以後、ロシアでは女帝は輩出されなくなったが、パーヴェル以降、1917年の革命で王朝が崩壊するまで、ロシア皇帝はすべてエカチェリーナの子孫から出ている。

 ここで、エカチェリーナより一回り年長だが、統治期間が重なるもう一人の啓蒙専制女帝としてオーストリアのマリア・テレジアを対照させておきたい。実のところ、マリア・テレジアは正式には女帝(女性皇帝)ではなく、神聖ローマ皇后という立場にとどまっていたが、夫である皇帝フランツ1世を凌ぐ実権を保持したため、歴史叙述上「女帝」と同視されてきた。ここでもそれに従う。
 さて、オーストリアも包含されるゲルマン諸王朝ではサリカ法の解釈上、女子の王位継承は否定されてきたが、マリア・テレジアの父カール6世には世継ぎの存命男子がなかったことから、やむなくロートリンゲン家の娘婿フランツを形式上後継者としつつ、娘マリア・テレジアにハプスブルク家領土の相続を認めるという苦肉の策に出た。
 これに付け込んで周辺諸国が介入してきたのが、オーストリア継承戦争であり、マリア・テレジアは治世初期の8年間をこれに費やさざるを得なかった。この戦争では一部領土割譲を余儀なくされるも、自身の領土相続は確定させることに成功した。
 その後は、従来の外交政策を転換して、フランスやロシアと同盟し、ライバルのプロイセンに対抗した。その結果がプロイセンとの七年戦争であるが、ロシアの親プロイセン派ピョートル3世の裏切りもあり、この戦争はほぼ引き分けに終わる。
 しかし二つの戦争を通じて、オーストリアは徴兵制軍隊などの軍制の近代化を推進し、西欧列強として飛躍していった。このように軍事強国化を導いた点では、マリア・テレジアもロシアのエカチェリーナ2世と共通する。
 啓蒙政策に関しても、ロシアのエカチェリーナ同様、マリア・テレジアも改革志向ながらやや保守的な面があり、このことは、ほとんど実権のなかった夫フランツが1765年に他界し、急進改革派の息子ヨーゼフ2世が即位して母との共同統治に入ると、ヨーゼフとの確執として現れた。
 マリア・テレジアはフランス革命前の1780年に没したため、親フランス政策の一環としてフランスのルイ16世に嫁がせた余りに名高い娘マリー・アントニア(アントワネット)がフランス革命の渦中で処刑される運命を知ることはなかった。
 オーストリアでは最期まで女子の皇位継承は認めず、正式の女帝が輩出されることはなかったが、ヨーゼフ2世以降、1918年の革命で王朝が崩壊するまで、オーストリア君主はすべてマリア・テレジアの子孫から出ている。

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