【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

童門冬ニ『小説 上杉鷹山』集英社文庫、1969年

2010-05-06 00:34:14 | 歴史

               

 上杉鷹山(治憲)のことは、正直言ってあまり知りません。米沢城の城址には行ったことがあり、上杉神社にも参詣したことはありますが、その時、治憲については無知でした。米沢藩の財政危機を救った名君程度の理解でした。

 600ページを超えるこの小説で、「お屋形さま」の名君ぶりがよく理解できました。

 治憲は日向の小藩、高鍋藩から上杉15万石の養子に迎えられ、藩主を継ぎ、財政危機を立て直すのですが、人、すなわち農民、職人を大切にし、彼らこそ藩の財産と考え、彼らの生活が豊かになることを第一に考えたようです。

 武士もその家族も率先して殖産興業取り組むことを奨励、自ら実践しました。米沢藩とて当然、守旧派が多く、文化も意識も保守的です。治憲の改革は取り巻きの重臣の反感をかい、領民の信用も危うかったようですが、人々の声を聞くことを大切にし、清い政治を貫き、その考え方は徐々に藩内に浸透していったのです。

 凄いのは、その改革を17歳ぐらい(1767年[明和4年])から始めて35歳で隠居するまで(1785年[天明3年])の、若い時期に短期で行ったことです。当初は江戸藩邸で日蔭者だった家臣を重用し、その才を引き出したとのこです。若くしてまさに大人の風格と篤信をもっていたようです。

 ちなみに米沢藩は上杉謙信の系統であり、謙信の養子であった景勝の時代に豊臣秀吉から会津120万石を拝領しましたが、関ヶ原の合戦で石田三成側についたために、家康によって減封されました。減封されても人のリストラを行わないませんでした。この時代の藩主であった綱憲が赤穂事件で有名な高家筆頭・吉良上野介の息子だったことで、藩には武家としての高い格式がもとめられていたそうです。財政危機の規模は、尋常でなかったわけです。

 最後の文章が印象に残りました。「鷹山が振興した米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、そして笹野の一刀彫にいたるまで、現在もすべて健在である。鷹山の墓は旧米沢城内にある」(p.659)と。

 2,3物足りなかったのは、治憲がどうして宮崎から上杉家の養子として米沢までやってきたのか、またこのような徳のある、今で言えば民主主義の権化のような人が幼少のころどのような環境に育ったのかが、一切書かれていなかったことで、この点が不明なため、治憲はわたしにとってまだまだ謎の部分が多いです。