↑ 右端が助手時代の上原氏、真ん中は宮川一夫カメラマン
↑ 左から私、上原明、小原譲二カメラマン、船越英二
2月28日、親友のもと大映撮影監督・上原明氏(写真・右)死去の知らせを受け呆然
としています。まだ詳しいことが判りませんが、特に関係の皆さんにお知らせします。
私の年配になると寂しいことに友人がどんどん減って行きますが、中でも昨年まで元
気だった上原明さんまでが・・・。涙が止まりません。
もう彼の死に切なくって書きたくない気持ちが一杯でもありますが、彼の追悼にな
るならと思い、敢えて書き残します。
上原明氏は大映東京撮影所で撮影助手として育てられ、昭和41年(1966)に「複雑な
彼」で一本立ちし、大映が倒産するまで24本の撮影を担当しています。中でも印象的
な作品は「闇を裂く一発」「燃えつきた地図」「夜の縄張り」「早射ち犬」「ガメラ対ギャオ
ス」「夜のいそぎんちゃく」「おさな妻」「でんきくらげ」などが印象的です。
実に個性的な感覚の持主で、特にレンズの選び方、使い方が上手かった彼でした。
更に一本立ちする前ですが、カメラマンの渡辺公夫さんが脚本・監督・撮影をした「東
京パラリンピック/愛と栄光の祭典」(1966)の製作者として名を連ねている変わり者でも
あります。
彼のお父さんは当時鹿児島の南国交通の社長であり、一時は大映の取締役に名を連
ねていて、私も可愛がっていただいたので親子二代の付き合いということになります。
大映後は彼が住む鹿児島と私が居る福岡で、毎月のように気分転換?をし続けたのも
忘れられない思い出となりました。最後に載せた変顔の二枚は私が冗談のつもりで明
さんの葬式用にと、二人で笑いながら撮ったものです。それでさえ今となれば仇となって
悲しい。明さん、どうか安らかにおやすみください。
人生の達人のお二方の
それが、変顔でも(笑)、渋くてチャーミングです。
お寂しくなりますね。
前にも関根(高橋)恵子さんが語った
デビュー当時の回想の記事について
投稿させて頂きダブりますが
「幼さな妻」の時に監督さん、スタッフさんたちに
娘のように、妹のように大切に扱ってもらった。
という話しを思い出しました。
スタッフさんたちは、元より
お人柄の良い監督さんに巡り会え幸運でした。
と言う意味のこと語っておられましたが
今回のお方のことだったのですね。
あと、子役さんと接していて
自分の内に秘めていたと思われる母性愛に
日ごとに目覚めてきた自分を発見しました。
との言葉が、 高橋さんらしい。。。
と印象に残りました。
私も悲しみに、
母が、三月三日に亡くなり泣き暮らしています。
95歳
年からしたら大往生と人はいいますが、、
これからどうやって生きていけばいいのか?
胃が痛くなります。
「おさな妻」は上原氏が撮影監督した作品です。
上原氏は勿論ですが、東京撮影所は非常に家族的だったなーと
思い返しています。周囲にはいい人が沢山いました。
お母様をお見送りして、ご心痛の様子は理解出来ます。
でもこれからはbunnさんが中心になって、皆さんを引っ張って
行かなけりばならないのですから、どうか一日も早く元気な
bunnさんに戻り、精進されますように。