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当時の大映九州支社は、現在でも大洋映画劇場の建物と裏側が繋がっている那珂
川に面したビルの3・4・5階にありました。同じビルの1・2階が創業して間もないロイ
ヤル本店で、来福時のマリリン・モンローがすごく気に入って3日間通ったのが、この
ロイヤルの2階レストランでした。
大映九州支社は3階が営業課と宣伝課、4階が総務経理課と支社長室、5階には会
議室・試写室・宣伝課宣材室があり、60人を越す大所帯で、宣伝課は課長、宣伝係、
広告係、宣材係の計9人でした。
九州支社の売上は全国売上の12%、宣伝費も本社-関西に次ぐ12%を持っていて、
序列的には本社→関西→九州→名古屋→北海道という順でした。
宣伝課には毎日のように新聞社の映画担当記者をはじめ、ローカルの雑誌記者、広
告代理店、印刷会社の担当、映画館の館主・支配人などが立ち寄っていたし、監督・
俳優たちもよく宣伝課には必ず顔を出していたことなどで活気のあるスぺースでした。
私は九州の次は撮影所の宣伝課長を熱望していて、もう少しでチャンス到来だったの
ですが、倒産の憂き目にあい、九州支社最後の宣伝課長となってしまいました。
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本社や支社のことにスポットを当てて頂いて、
より一層、大映のことが詳しく解ってきて嬉しいです☆3階~5階は大映の九州支社が入っていて
1階~2階は大映の方々が行きつけのロイヤル
そこにマリリンモンローが3日も通ったのですね
゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚彼女と大映との縁に感動しています それからけんさんのお写真、格好いいですね♪♪
2枚目のお写真、クールです。
藤由紀子さん、切れ長の目が魅力的です。
中島さまは、審美眼が肥えてらして
街で美型な人を見かけても
そう、ビックリなさらないのでは? (笑)
「江田島」のキャンペーン写真
机に向かっている人たちも真面目な表情ですね。
それから、
下から2番目の帽子を被った女性はどなたでしょうか?
M・モンローは、
帝国ホテルの窓からの笑顔の写真のイメージが強かったので
来福してロイヤルが気に入っていた話し、初めて知りました。
今の映画会社では考えられない本社・支社の規模でした。
その中で夢中で仕事をしていた皆さん、いい思い出を沢山残して
くれています。
映画会社はラクチンと思っている人が多いのですが、みんな真剣で
必死に仕事をしました。
帽子の女性は飯塚市出身の大映女優・松尾親代さんです。地元に帰って来ては
私の所に顔を出してくれていました。
いつも有難うございます。
「妻の日の愛の形見に」
での原作者の方のきめ細やかな対応や
「野火」での戦車のアイディアや、お目玉の後日談
13. 5/13 のブログでも
雷蔵さん、山本富士子さん、
東京から招いてのイベントのエピソード etc.....
中島さまのご著書やブログから
中島さまや、業界の方々の一生懸命さ
たくさん伝わってまいります。
俳優・田宮二郎を記憶しているのは40歳以上の人だろう。1960年代から1970代にかけて一世風靡した俳優であり、タレントだった。
1965年の春頃だったか?俳優、故・田宮二郎と女優、藤由起子に出会った。場所は当時、私が住むロサンゼルス。彼らは新婚旅行でやってきたのだ。
当時はロサンゼルスには日本の映画館が6館あった(1971年に日本語放送が放映されるようになったことで現在はゼロである)。
田宮二郎、藤由起子は大映映画に所属していた関係で、大映映画専用館「国際劇場」で舞台挨拶ついでに田宮二郎が歌をうたう事となった。2本の上映作品の間のインターミションに田宮二郎のショータイムが急きょ企画され、そのためにバンドが招集されることになった。
当時、田宮二郎が勝新太郎と主演した今東光原作の「悪名」シリーズが大好きで、シリーズ15本のほとんどの作品を観た。役名は清次だったように思う。勝新太郎が演じた役名、朝吉とのコンビは最高だった。
舞台は大阪の河内。ちょっと話がズレるが、日本に帰国の際、元衆院議員の故・三宅博氏が彼の地元である河内地区の歴史にも、悪名シリーズにも詳しいことを知った。それだけ「悪名シリーズ」は多くの人々に支持されていたのだ。
当時、日系人を中心としたギャング団がいくつかあったが、その中に「悪名」とネーミングしたのもあった。メンバーは10人ちょっとの弱小集団だったが、リーダーの「ヒトチ」がこの悪名シリーズが好きで、喧嘩のやり方が、田宮二郎演じる清次そっくりだった。
ちなみに私が16~18歳まで、父親に内緒で参加していたのは「神風」というグループだった。平均年齢は19歳だった。ダンスパーティーの主催を中心に活動していた。メンバー数、約20名の弱小グループだ。お揃いの皮ジャンを着て、背中にKamikazeと刺繍を入れていた。私は最年少だったが、ダンスパーティーの主催に関しては中心的役割を担っていた。
我がグループのバックにはミニスター1、ミニスター2、ミニスター3がついていた。ミニスター1が平均年齢24歳ぐらいで、200人程のメンバーがいた。ミニスター2は平均年齢20歳ぐらいで40人、ミニスター3は平均年齢17歳ぐらいで60人程のメンバーがいた。
これらのグループの幹部メンバーは、父が道場主の「クレンショー道場」に通っていた。皆、父の前では礼儀正しかった。私には一目置いていて、何かとトラブルに巻き込まれれば、助けてくれたものだ。
道場には子供から大人まで、約100名が通っていた。まだ人種差別があった時代に、黒人、白人、東洋人が一緒に稽古で汗を流したのだ。消防士や警察官も10人ほど通っていたが、柔道の実力はギャング団の面々の方が少し上だったように記憶している。
柔道を稽古しない見物人も多く、この黒人とアジア人コミュニティーでは知られた溜まり場でもあった。そのお陰で、1965年8月に発生した「ワッツ黒人暴動」(1992年の黒人暴動の数十倍の規模)の際には多くの黒人が守ってくれて、被害はなかった。
話が横道にそれてしまった。
田宮二郎の新妻、藤由起子の作品も国際劇場で何本か観た。でも一番記憶に残ったのは、私がまだ日本にいた頃、あれはたしか私が小学3年生か4年生の頃だった。テレビで、シリーズ化されたドラマ「人間の条件」に藤由起子は加藤剛扮する梶上等兵の新妻役として出演していた。
鮮明に覚えているのは、彼女のお風呂の入浴シーン。雪が吹き付けた窓ガラスから彼女の裸体が部分的に見えるのだった。今考えて見ると、テレビだし、時代的にもそんな過激なシーンではないと思うが、小学3年生の私にとっては、寝つけないほど刺激的だった。私は余程マセていたのだろうか?その藤由起子と、テレビや映画以来の再会(?)を果したのだ。
当時、私はトランペットを習い始めたばかりの12才の少年だった。まだ、渡米して1年半の頃だ。記憶が定かではないが、田宮二郎が29才、藤由起子が26才だったように思う。実年齢かどうかは別にして、田宮二郎本人がリハーサル中の雑談で29歳と言ったように記憶している。藤由起子の年齢は彼女がメークをしている時、失礼ながら私が直接聞き出したのだ。
当時、私は中学一年生で学校のバンドでトランペットを担当していた。最初の半年は黒人からプライベート・レッスンを受けていた。田宮二郎のバックで吹く私のトランペットの先生は2人目だ。彼は関西大学のジャズバンドからプロで活躍したトランぺッターで渡米してまだ半年だった。
リハーサルをドラマー宅の応接間でやるというので見学に行った。さすが田宮二郎は背が高く(179cmと言っていた)、カッコ良く、藤由起子も美人で素敵な女性だった。二人ともおごった様子も無く、ナイスカップルに見えた。
舞台挨拶が夜の8時頃で、リハーサルは6時頃から始まった。簡単に音合わせをやって、3、4曲歌って、あっという間にリハーサルは終わった。何を歌ったかは、まったく覚えていない。
リハーサル中、私はメイクをしている藤由起子の隣に座って、彼女に色々と話しかけた。彼女は迷惑がるわけでもなく、時折笑顔を見せながらお相手してくれた。内容は覚えていないが、彼女がつけまつげをつけようとした時、「うーう。何それ?気持ち悪い?」と声を出した。その時の藤由起子の微笑みがとても素敵だった。私は初めてつけまつげをつける女性を間近で見たのだった。
そうこうしているうちに、国際劇場の支配人の横山さんが迎えにきた。そして、4台の車で国際劇場に向かった。勿論、私もその内の1台に便乗した。裏口から入り、映画上映が1本終わった後、ステージにドラムとピアノがセットされた。約、800席は満席だった。そして、ショータイムが始まった。
田宮二郎は堂々と歌を数曲歌い、観客の質問にも答え、楽しい話術も披露した。藤由起子さんも挨拶したが、新しい夫をたてて、目立つ事を控えていたようだった。約、40分のステージは盛大な拍手によって幕となった。
田宮二郎夫妻はバンドの人たちに挨拶し、横山さんの後について裏口に向かった。その時、藤由起子さんが振り返った。私と目があったのだ。私は12才のまだ成長しきっていない胸をドキドキさせていた。
由起子さんは「坊や、またね・・」と言った。私は返す言葉も無く、口を開けてただただ2人が去って行くのを見送った。
私にとっては長~い、刺激的な夜であった。
FBに三宅さんが書いていましたよ〜
永田社長から学んだことの一つに、人との付き合いを大事にしなさい…でした。
大映時代もそうですが、その後もこの教訓を守っているつもりです。
ご紹介いただいた三宅さんの文章、読ませていただきました。有難いですね。
田宮夫妻も元気だったら喜んで読んだと思います。
私はFBでの友人が約700人ですが、この方は存じませんでした。熱心な方ですね。