新作映画を1週間近く見ていません。
今月後半は試写が詰まっているし、映画館に行って見たい作品も多いの
で頑張って感想を書かせていただきます。
もう少し旅の話とか、もと居た大映のことなどを書きたいと思っていた
ので、今日から週に2~3度、計10回くらい永田雅一・もと大映社長のこ
とを中心に載せますのでお付き合いください。
それからこのブログの写真アップ機能が不調で管理者側に修復を依頼し
ていますが、中々元に戻りません。
今回も永田雅一氏と私のツーショットを含めて、懐かしい写真を載せた
いのですが文章だけになりました。
あまりに修復が延びるなら、写真が載せられる新しいブログに引っ越す
ことも視野に入れています。
その時は新しいアドレスをここに載せますので宜しくお願いします。
この前、本棚を整理していて、引っ張り出して読み直した永田雅一・著
「映画道まっしぐら」(駿河台書房版)の思い入れが強く、先にご紹介す
ることにしました。
私のことから書き出すのは恥ずかしいのですが、私はある監督宅に座り
込んだり、新東宝撮影所でアルバイトしたりしてましたが、本心は永田
雅一率いる大映にどうしても入りたかったのです・・・。
私が書き始めていた脚本のことや、ひょんな縁で可愛いがってくれた某
監督の口添えもあり、遂に大映に入社出来た喜びはなんとも言い表わし
ようがありません。
大映に入ってからもそう簡単には行かなかったけど、一生懸命やったお
陰でどうにか永田社長が出る会議に、私も毎月出席出来るようになりま
した。
大映での仕事は今思えば大変なことが多かったのですが、当時は楽しく
て楽しくて・・・に尽きる思い出が一杯です。
その中でも永田社長への敬慕の思い出は強烈で、大映が倒産した後でも
社長が亡くなった1985年(昭和60年)に、やっと本当に大映を辞めたんだ
と思うに到りました。
永田社長のことを人はラッパと呼び、いかにも誇大妄想の言を吐いてい
たような印象を持たれていますが、彼はいつも言ってました。「言いた
い奴には言わせとけ、俺一人では何も出来ないんだ、社員は俺を先頭に
一丸となって頑張ろうの進軍ラッパだ・・」と。
また永田社長をワンマンと言うが「それで結構、ワンマンとは自信マン
マンのマンにほかならない。私だって深く信頼する相談相手はいる、そ
の人たちの意見を斟酌して考慮検討するのは当たり前だろう、がそれ以
上は私に属するのだ、私は社長なのだから最後は自分で決める・・それ
だけだ」と言っていました。
永田社長の話は数字的な裏付けがちゃんとなされていて、私たち聞く者
に対してはとても説得力がありました。
また芸術意識は馬鹿げてる・・・・・・も口癖でした。「私は映画は全部娯楽
作品だと思っている。娯楽作品でなくちゃいかん。但し脚本も監督もカ
メラも、全ての分野の技術、芸術が最高度に結集された場合に、それが
芸術性を持つということだけなんだ。だから芸術映画とか大衆向きの映
画だとか個別する方がどうかしてる。高度な文学作品を映画化するとそ
れが芸術映画だというようにジャーナリズムが喧伝する。これが間違い
なんだ。その作品をどのように消化し切ったかという結果について批判
しなければいかん。その作品が映画的に消化されていなかったらそれは
映画の負けなんだ。映画は所詮大衆を愉しませる娯楽を目標にせよ。そ
うして作られたものの中で、たまたま出来上がった結果論から世間の人
が見てこれは芸術的な匂いがあると思ってくれればいい・・・。
この考え方には反論される方も居られるでしょうが、少なくとも私の
映画感想もこの線に沿っていると思っています。
この本の内容は上記に加えて、彼の生い立ち、大正14年に映画入り、昭
和7年の日活入り、9年の第一映画設立、そして昭和16年の大映創立・・・
この本が世に出たのが昭和28年12月、大映の絶頂期で永田社長の進軍ラ
ッパが鳴り響いていた時期で、当時大映社員に配られたものです。
紙も印刷も悪いし、私の保管状態も悪かったので最悪ですが、永田社長
の報道記事は沢山ありますが、このように纏まった本はこれだけだと思
います。
彼の辿った道は、永田雅一の道と言うより日本映画の辿った軌道のよう
に広く深くて面白いです。
初期のディズニーやゴールドウインの日本配給権を持つに到った経緯、
ペプシコーラも然り、東南アジアとの関連、テレビ・プロ野球・競馬にも
触れていますが、セパ交流試合を当時から唱えていたのも彼。絶好調の
当時なのに日本映画の危機や改革に警鐘を鳴らしています。
とても面白い本だと思いますよ・・・。 (続く)