勝地(かつち)ブログ

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vol.421 歩いて教えられ

2017年10月18日 22時09分23秒 | Weblog
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空を見上げながらの二日間の四国遍路。走った距離は848km、無事、午後9時半に帰ることが出来ました。
なんとか本降りの雨になるまでに予定の参拝は終えましたが、最後の最後で、いい修行をさせてもらいました。

第五十四番延命寺、第五十五番南光坊、第五十六番泰山寺、第五十七番栄福寺、そして第五十八番仙遊寺と、ここでは子ども園のみんなが遠足かな、山の中腹ですが来てました〜ちょうど弁当広げて楽しそう。


第五十九番国分寺、ここで時刻は11時半。なら、もう一つ、予定最後の第六十番横峰寺に参拝しよう、そこまでの道中の間にメシ屋でもあれば昼メシ済ませて。
と、思ってたんですが・・・メシ屋も見当たらずカーナビはドンドンと山の中腹へ案内。着いた狭い駐車場には車が2〜3台。時間は午後1時。先に着いてた70歳代おじさん2人組みが杖を手に参道を歩き始めたので、後に続いたのでした。参道はあまり人が歩いてないような。それも2.2キロあるとの表示板。後で思うと、このルート「なんかおかしくないかい」とココで気がついてたらよかったんですが。
でも疑いも持たずに歩きましたよ、傘を杖に。


険しい谷川は流木がこんな状態で荒れ放題、豪雨の物凄さを教えてくれます。



横目に見ながらひたすら歩く。もはやすっかり歩き遍路さんです。下ってくる出会った参拝者は2人だけ。


山道、坂道、急勾配の道を歩くこと1時間半。汗びっしょりです。


山門に着いて、スマホでネット検索で調べてみると、以下のごとくで、別ルートを林道で行けるらしいと分かり、あーあ。ならもっと手前の道路で教えてくれよって。

(以下、ネット検索から転載)
横峰寺の歴史・由来

西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。
縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。
弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。


で、納経所で記帳していただくとき僧に歩いて上がってきたと告げると、「ご苦労さんでした。あなたは歩く宿命にあったんでしょう」と何事もなかったように言われて、注意書き看板整備の文句を言いたい心の狭さの自分を見透かされたのでした。

降り出した雨の中を、今度は急な下り坂を約1時間かけて下りました。これだけ歩けばきっと御利益があるだろうと慰めながら。

振り返ると、
途中昼メシを食べてたら、先着の2人組に出会わずだから、まず歩いていない。カーナビ案内を疑い誰かに聞いて別の林道コースに向かってるだろう。

でも、私も妻も歩いて正解だったような気がしています。山岳修行とは、歩き遍路とは、まだ歩ける喜び、お陰で元気な身体など歩きながらいろんなこと考えました。


*誤変換及び文章の瑕疵は後ほど推敲します。
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