Yoshi Veggie & Salon de Topinambour

自然な暮らしとナチュラルフード、地球の多様な食文化を愛する、旅する植物料理研究家YOSHIのつれづれ

Vege a Table CAFE TOPINAMBOUR→Salon de TOPINAMBOUR→秩父へ旅は続く

旅する植物料理研究家YOSHIは、食文化と風土の多様性を愛し、ベジタブルを愛し、そのきらめきとときめきを料理に、レシピに、食卓へとつなげていきます。

2018年春、国立→秩父へ拠点移動中 タミパン&料理ワークショップ・料理制作等々、プライベートグループへの出張も随時行っています。 お問い合わせください。

摂食障害のはなし

2018-02-23 | Weblog

昨年から時々書いてきた、私のネガティブネタの続きを。

マクロビオティック・穀物菜食に夢中になっていた頃のこと。
原因不明の湿疹に悩まされていたのが、マクロビオティックの食事を実践するうちに、明らかに変化していきました。この変化に希望が生まれ、私の新しい家庭にもこの食事法を取り入れていました。
からだにも地球にもやさしい、動物にもやさしい。第一、理にかなっている、マクロビオティックこそが理想の食事法だ!この嬉しい発見で私は正義感にあふれていましたから、そのままでいくと普通の食生活をしている周りの人たちとの調和はなかなかとれません。
当時はベジタリアンの食事ができる店の選択肢も圧倒的に少なかったし、普通の飲食店に行ってもなにも食べられるものがなく、次第に交際関係もマクロビの学び仲間に限られていきました。

こんな理想的な食事が、なぜ一般的でないんだろう、どうしてこの考えが世の中では受け入れられないのだろう。周りの無理解への歯痒さも感じていたと同時に、周りに納得してもらえるようなおいしいものを野菜や穀物だけでつくれない自分に対しても、疑心暗鬼になりました。
いつしか、頭の中が、食べもののことばっかりに、なっていました。
その間、上京、就職、結婚、そして離婚、というめまぐるしい環境変化のなか、バランスをくずした私は、ノイローゼになっていました。

自分が良しと思う穀物菜食をつくって食べたのに、夜遅くにコンビニエンスストアに行って、パンを買い込むということが何度となく起きました。食パン1袋だって平らげられます。過食と嘔吐、そして絶食を繰り返しました。苦しいのにさらに胃のなかに詰め込みながら、涙が止まりません。
「摂食障害」という病がある、と知ったのは、自分のこの脅迫的で異常な詰め込み行為がなにかおかしい、なんなんだろう、と疑問に思ってからです。
マクロビオティックの考えは正しいのに素直に実践できずに、健康回復どころか摂食障害になってしまうのは私の人間的な弱さだと思っていました。

カウンセリングやいろいろな療法を試してみても、ノイローゼと摂食障害の出口は全く見つかりませんでした。自分がどうしたいのか、どうしてこんな自傷行為をするのかも、まったく、わからないのです。答えを求めて、前世まで辿ろうとしたこともあります。

語りたくない体験談です。ですが、あえて語ってみるとすこし自分のなかに、軽さが出てきます。
時々、あのときの私と似た表情をした人を見かけます。
周りの理解が得られずに苦しんでいるのか、自己矛盾に苦しんでいるのか、あるいは、私みたいに自分の感情さえもわからなくなっているのか・・・。
私のトホホ体験は、せめてだれかの反面教師になってくれますように。悪循環にはまっている人が、肩の力が抜けて楽になりますように。

その後、摂食障害をどうしたのか。
私はその状態を、ただ受け入れてみようと思いました。

ヘルシーなご飯が食べたいと思えば食べ、ジャンクフードを食べまくりたいのだ、と意欲が湧いたら、「わかった!」と言って気が済むまで自分に過食させてあげる。苦しいから絶食する、と心が叫んだら絶食させてあげる。お肉が食べたいのかな?と思ったら思い切って食べました。差し入れのお料理も、マクロビ推奨的なものではなくても、おいしそうと気持ちのどこかが動いたら、気にせずいただくようにしました。

自分に課していた食のタブーを、ひとまず全部外しました。
マクロビオティックこそが理想の食事だ、という決めごとも、自分のアタマから外しました。

依然として過食・絶食の繰り返しです。
ですが、私の心・からだの知らないところに、切実な叫びがあって、危険を顧みず私に何かを訴えてようとしているのは確か。そのわかっている部分だけでもいいから、要求は、ちゃんと聞いてやろう、と決めたところだけが変わったところです。過食してしまう自分を、否定しない。

たくさん食べたいと思ったらたくさん食べ、そんだけ食べりゃあ気持ち悪いよね、と自分に笑って寄り添ってあげているうちに、いつしか、それは単なる食べ過ぎになり、脅迫観念と切り離され、病的行為ではなくなっていました。
過食欲求は、気がついたら治まっていました。ノイローゼも、いつしか自然消滅していきました。

私は、私自身に対し、そして周りの人たちに対しても、ひとつの食事法・健康法が完璧だと思い込むことの危うさを、身をもって体験しました。
自分のことを自由にしてあげてはじめて、相手や周りのことも自由にしてあげられる、ということも。

私は今、五感が美味しいと思うベジ料理をつくって、食べてもらっている。
おいしいって思ってもらえたらいい、からだの中に染みわたって、エネルギーになってくれたらいい。それが野菜料理で健康料理だということを意識してもらわなくてもいい。そして、お肉が欲しいと思うならそれを美味しく食べてほしい。アタマで食べるのじゃなくて、カラダで食べてほしい、そう思います。

もしも、きよらかでバラ色のベジタリアン生活やマクロビオティック生活を取り入れたはずなのに、真剣になるあまり、人間関係がぎくしゃくしたり、心身のバランスを崩して悩んでいる人がいたら、こんなふうに自分に語りかけてほしいのです。

食は私の人生の主役ではない。
主役は自由意思をもった生身の私。
テキストブックや学校の先生は、愛であり道しるべではあるけれど、私の保証人でもなければ、道そのものでもない。
本当に耳を傾けるのは、私のこころとからだの内側から聞こえてくる声。
今日の私の声と、明日の私の声は違っているかもしれない。
でもそれを信じてあげる。
そのままの自分を受け入れてあげる。
私が、私のからだの一番の理解者であり、主人だから。

子どもの頃から完全菜食でスタミナに満ち溢れている人もいますし、お肉大好きで病気知らずで長生きする人だって知っています。食事法には、すべての人にとって万能な「絶対」はないのだと思います。

体が欲しがっているのは栄養だけではない。
食べることは人間にとって一番の快楽だから、喜びをもつことも必要。が、そして、人と人のつながりも感じたい。ホリスティックなもので人のからだはできている。当たり前だけど、食のあり方にフォーカスしすぎて、別の大切なことを見えなくしてしまうこともあり得るのだということです。健康のためには、大らかさも大事です。

スナックや菓子パン、ジャンクフード、いのちを取り除いた加工食品が、スーパーやコンビニの棚に溢れかえっています。今の日本の食の縮図。メタボになるよ、と言われるようなものこそ、食べたくなってしまったり。
摂食障害(とくに過食)も含め、健康とは真逆の摂食行為は、人類の飢餓の記憶が、ハイカロリーなものに気持ちを駆り立てているだけではなさそうです。
もっと深いところのメッセージ、リクエストが、傷だらけの体から、または出血した魂からきているのかもしれません。

***
この文章のもとになるものがあって、それを書いたのは数年前のことです。

心理学を学ぶうちに、摂食障害、という現象は自分の行為を受け入れることで収まったけれど、真に受け止めきれていない体や魂からのメッセージが、違う形でまた立ち現れるということに、今は気づいています。
マクロビオティックへの強いこだわりとそこから始まった摂食障害は、現象のひとつ。マクロビをやったからバランスを崩したのとは違います。(マクロビにこだわりすぎると難しいことあるな、とは思います)

自分らしさに気づく旅の、プレゼントです。痛いけれど(笑)。


気が向いたら、また続きを書いてみようと思います。

よかったら感想など、聞かせてください。