ただ今!
今回は、シンガポールと香港に行ってきた。
香港では、一回もお天道様を拝めなかった。離陸の時の天気も雷雨だった。
香港の夏で、壮快な気分になったことは一度もない。だんだんそのシーズンに近づきつつある。じめじめむしむし。
シンガポールも、ガンガン暑いシーズンになりつつあるはずだが、スコールもまだあり、いまいちはっきりしない天気だった。シンガポールの場合、その方が涼しくていいんだけど。
シンガポールでは、いよいよ元クラウンプリンスホテル(今は、パークホテル)が、クローズしていた。リノベーションされるのだろう。
サマーセット駅近くの巨大ショッピングセンターも、その巨大な姿を現してきた。
高島屋ショッピングセンターは、相変わらず健在。シンガポールのみならず、東南アジアの国々からのショッパーが訪れる夢のショッピングセンターなのだ?
まだまだ明日香の一日は、続く。
亀形石造物も、今回の明日香訪問の目玉だ。
2000年にこれが出てきた時は、大ニュースになった。
今(有料だが)、そのままの姿で展示されている。
ボランティアの方の説明によると、今は、道路を挟んだ反対側にある奈良県立万葉文化館のための駐車場を建設するため、念のため、地中に何にもないことを確認していたら、石垣が出てきて、8mも掘り進んだ最後の最後にこの亀形石造物が出てきたのだそうだ。
亀形石造物と、石槽は、本物にプラスティックコーティングを施してそのまま展示しているという。上の樋は、もちろん複製。その上の部分も本物は埋め戻して、複製とのことだった。でも、こういった形で、発掘された時に近い形で、見れるのは、嬉しい。
説明板にはこうある。
”酒船石(さかふねいし)遺跡は『日本書紀』斉明天皇二年の条に記載のある「宮の東の山の石垣」にあたる遺跡である。平成12年に行った発掘調査で、亀形石槽を中心とした導水施設をはじめ石敷き・石垣・石段が発見された。湧水施設から流れ出た水は木樋を伝って舟形石槽(小判形石造物)の水槽に溜まり、さらに小穴から流れ出た少量の水が亀の鼻に入り、背中の水槽に溜まる構造になっている。これらの遺構は谷底の深い場所にあり、周囲を石垣や石敷で閉ざされた空間であることや、水の流れを見て楽しむ構造でないことから、天皇祭祀にかかわる場所であったと推定される。”
そこから丘に登ると、これは、昔から有名な酒船石遺跡がある。こちらは、無料。亀形石造物も(無料で)ちらっと見える。
何とも不思議なデザインだ。カンボジアファンの私などからは、ヒンドゥ教のヨニではないかとも思ってしまうのだが、ミステリアスかつ宇宙的でもある。これまた、松本清張さんの”火の路”に、詳細な説明がある。
竹林の中に忽然とあるが、亀形石造物を見下ろす位置だ。
説明書きは以下の通り。
”この石造物は、現状では長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1mで花崗岩で出来ている。北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかに運びだされたと考えられて、石割りの工具跡がのこっている。石の上面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。酒をしぼる槽とも、あるいは油や薬を作るための道具ともいわれている。しかし、この石の東40mのやや高いところで、ここへ水を引くための土管や石樋が見つかっていることから庭園の施設という説もある。”
ということで、やっぱりまだ何も分かっていないのだ。
これらの謎の石造物から、道を挟んだ反対側に万葉文化館がある。すごい立派な建物なのだが、正直、展示は万葉集からインスピレーションを得た現代画や、当時の庶民の様子を人形で再現した展示などで面白くない。
見どころの一つはここから見た景色。
そして、ダントツの見どころはこれだ。富本銭の作られた炉の跡だ。
この文化館を作る時に見つかったもので、和同開珎よりも古い貨幣として、これまた有名になった。
本物の遺構は埋め戻してあり、これは、復原だそうだが、当時ここで、中国から得た最新技術で、貨幣を一生懸命作っていた人々の姿を想像するだけで、ワクワクする。
説明書きにはこうある。
”この復原遺構は、工房跡の一部について発掘調査時の状態を実物大で復原しています。実物の遺構面は、(往時の人達が日々の仕事をしていた地面は、この復原遺構の直下の約4メートルのところに保存されています。
こ復原遺構は、炉群や水溜などがある火と扱う工房跡です。この場所で富本銭の鋳型など、富本銭鋳造に関わる遺物がまとめて埋められていた土坑も見つかっています。並んだ柱列は工房を区画していた塀の柱跡の位置を示しています。”
飛鳥は、ここに確かにあったのだ。1400年も前だけど。
明日から、日本脱出でしばらくお休み。m(__)m
またまた平地におりて、こんどは、伝・飛鳥板蓋宮跡に行った。伝とあるのは、はっきりしないからだ。
確かに、大きな建物があったことは、わかるが、特定はできていないようだ。もし、本物であれば、ここが645年の大化の改新の舞台ということになる。仮に、ここではなかったにしろ、このあたりで起こったクーデターであったことは、間違いないだろう。
説明の看板はなぜか朽ち果てていたが、そこに説明書きの小さな紙が貼っつけてあった。
そこには、こうあった。
”推古天皇から持統天皇に至る7世紀の約100年館間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺構はどれもまだ確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた。
その結果、女ァ柱列で囲まれた東西約156メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)と、その南北では、中軸線上に位置する五間×三間の門と、七間×四間の建物、北半ではここで復元したような高床式の大きな建物や大井戸など多くの遺構が検出された。また内郭の東南に接しては、九間×五間の大規模な堀立柱建物(飛鳥エビノコ大殿と仮称)を中心とする一区画があり、さらに東の建物ぞいには、これらの遺跡を囲む外郭の柱列や石溝が南北に続いていることも明らかとなった。
建物は、すべて堀立柱で、周囲に石敷があり、木簡や土器などの出土遺物から、板蓋宮よりは新しい7世紀末ごろの宮殿遺構と推定されるが、下層にも遺構があり、いずれの宮であるかは、なお今後の調査を待たねばならない。”
ちょっと長くなったが、確かにこの原っぱだけではよくわからないので、詳しい説明が必要だったのだろう。
岡寺は、その名の通り、町からかなり登ったところにある。この入口あたりでは、まだそんな雰囲気ではないのだけど。体力に自信がある場合に行こう。道はしっかりしている。
立派なお寺だ。
厄除け観音として有名だ。日本最古という。
説明板には、
”東光山真珠院竜蓋寺は俗に岡寺と呼ばれる。天智天皇の御代、義淵僧正によって創建されたと伝え、西国観音霊場33か所の第七番の礼所として広く信仰されている。
本尊如意輪観音はわが国の塑像の中で最も大きく、また、体内仏といわれる金銅半跏像は白鳳の様式を示し、楼門、書院等と共に重要文化財に指定されている。旧寺跡は燐接するはるた治田(はるた)神社境内を推定され、付近より美しい葡萄唐草紋軒平瓦など白鳳時代の瓦が出土している。”
とある。
由緒正しいお寺だ。
観音様は、ちょっと不思議。まず、塑像でこんなに大きいのは見たことがないし、のっぺりした感じ。神々しいという感じではないので、重文にとどまったか。
塔も立派。一番高いところにある。
岡寺からの眺めは、すばらしい。岡寺の最大のポイントかもしれない。これだけ登ってきたのだから、それくらいのメリットはないとね。飛鳥の清水寺的存在か。
マラ石は、石舞台古墳から、ちょっと奥まったのどかな山村にある。道の脇にそっとそびえたつ?が、訪れる人も少ない。比較的写実的だが、インドのリンガのような宗教的な意味があったのだろう。道祖神の元祖か。
説明板には、
”明日香村にある謎の石造物の一つ。男性器を模したもので本来は真っすぐ立っていたともいわれている。飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。
子孫繁栄や農耕信仰にも関係した遺物と考えることもできよう。”
とある。
そんなたいそうなものでもないように思う。
そこから犬養万葉記念館に向かった。昔ながらの町並の中にある。
犬養孝さんの功績を記念して造られた記念館。
犬養さんは、親が大好きで、万葉の道を紹介するテープを繰り返し聞いていたことを思い出す。
万葉の詩にちなんだ地に建てられた石碑に刻まれた万葉集の詩を紹介する展示だった。こじんまりとした展示だが、万葉ファン、犬養ファンにはマストだろう。
いいんでないかい?