今日は、また冬に逆戻り?

昨年、伽耶展に行った話はした。
日本で、出土するものとよく似た発掘物が、伽耶と呼ばれる地域で多く発見されていることを知った。
その伽耶展と時を同じくして出たのが本書。
本格的な本で、難しかったが、興味深い内容だった。
難しい理由は、多々あるが、一番は、やはり当時朝鮮半島南部に多数あった国、地域の名を元々知らないのと、そもそもその存在自体が、不確かで、ふわふわしたものであることがある。
伽耶というのは、日本書紀で言う任那のことだが、その伽耶自体、先日の伽耶展でも明らかだったように、当初慶州南部の金官伽耶だったのが、大伽耶になりということだし、定義は変化し、その範囲、歴史も推測によるところが大きい。
伽耶と百済の間に馬韓があったが、その国自体、実態がよくわからず、書物に残るのみだ。
では、なぜ面白いかというと、日本に残る七支刀や古墳、広開土王の碑、朝鮮半島での発掘物などを研究すると、書物に残る歴史と実態のギャップが浮かび上がり、本当の歴史を推測できるからということになろうか。
朝鮮半島で、日本製の武具が多く発見されるが、これは、古代日本軍が、朝鮮半島で戦闘に参加したのではなく、当時日本で生産できなかった鉄を、日本が輸入し、その対価として、刀や武具にして輸出したものだと推測する。
広開土王の碑で、日本が朝鮮で大暴れしていたのを打ち負かしたとあるが、これは、広開土王の功績をより大きく見せる創作だという。
同じことが、日本側にも、中国側にも言える。
中国は、倭の五王の時代、様々な統治権を倭に与えたように史書にあるが、そもそも当時の宋は、弱体化しており、朝鮮半島に権力を及ぼしておらず、統治権を与えられる状況ではなかった。
倭も、伽耶と深い関係にあったものの、人や、物が、頻繁に交流したというだけで、伽耶を統治している訳ではなかった。
だから、百済に、任那を割譲したというのも、虚構で、百済が勢力範囲を拡大する中で、日本との関係が深かった任那(伽耶)が、百済の勢力下に入ったというのが真相と説く。
しかしそのため、百済と新羅の対立が激化し、百済は、新羅に滅ぼされてしまった。
その頃、日本では、新羅と百済に対する対処法の違いで、磐井の乱が起こったとされるが、それも後付けの理由で、倭が対立する九州勢力を駆逐したというだけのこと。
3世紀当時、奈良に、倭と邪馬台国に二勢力があったとすることが前提で書かれているが、ここは、本題ではないにしろ、根拠は、あまり説明されていない。
一方、朝鮮半島とのつながりに関する証拠は、九州に圧倒的に多いことが記される。
そのつながりは、多くの分野に渡る。
この辺は、図でも多く紹介されていて、たいへん興味深い。
特に、朝鮮半島側での古墳図、発掘物については、細かく分析されていて、日本で見つかるものとの類似点、相違点が明らかにされる。
とはいえ、発掘物は、まだ断片的であり、並べて網羅的に比較分析することは難しい。
副題の朝鮮海峡の考古学が示す通り、朝鮮海峡をまたいだ考古学研究の魅力を伝えてくれる1冊だった。
昨日訪れた鬼の城などの山城の話は、その後の歴史だ。

昨年、伽耶展に行った話はした。
日本で、出土するものとよく似た発掘物が、伽耶と呼ばれる地域で多く発見されていることを知った。
その伽耶展と時を同じくして出たのが本書。
本格的な本で、難しかったが、興味深い内容だった。
難しい理由は、多々あるが、一番は、やはり当時朝鮮半島南部に多数あった国、地域の名を元々知らないのと、そもそもその存在自体が、不確かで、ふわふわしたものであることがある。
伽耶というのは、日本書紀で言う任那のことだが、その伽耶自体、先日の伽耶展でも明らかだったように、当初慶州南部の金官伽耶だったのが、大伽耶になりということだし、定義は変化し、その範囲、歴史も推測によるところが大きい。
伽耶と百済の間に馬韓があったが、その国自体、実態がよくわからず、書物に残るのみだ。
では、なぜ面白いかというと、日本に残る七支刀や古墳、広開土王の碑、朝鮮半島での発掘物などを研究すると、書物に残る歴史と実態のギャップが浮かび上がり、本当の歴史を推測できるからということになろうか。
朝鮮半島で、日本製の武具が多く発見されるが、これは、古代日本軍が、朝鮮半島で戦闘に参加したのではなく、当時日本で生産できなかった鉄を、日本が輸入し、その対価として、刀や武具にして輸出したものだと推測する。
広開土王の碑で、日本が朝鮮で大暴れしていたのを打ち負かしたとあるが、これは、広開土王の功績をより大きく見せる創作だという。
同じことが、日本側にも、中国側にも言える。
中国は、倭の五王の時代、様々な統治権を倭に与えたように史書にあるが、そもそも当時の宋は、弱体化しており、朝鮮半島に権力を及ぼしておらず、統治権を与えられる状況ではなかった。
倭も、伽耶と深い関係にあったものの、人や、物が、頻繁に交流したというだけで、伽耶を統治している訳ではなかった。
だから、百済に、任那を割譲したというのも、虚構で、百済が勢力範囲を拡大する中で、日本との関係が深かった任那(伽耶)が、百済の勢力下に入ったというのが真相と説く。
しかしそのため、百済と新羅の対立が激化し、百済は、新羅に滅ぼされてしまった。
その頃、日本では、新羅と百済に対する対処法の違いで、磐井の乱が起こったとされるが、それも後付けの理由で、倭が対立する九州勢力を駆逐したというだけのこと。
3世紀当時、奈良に、倭と邪馬台国に二勢力があったとすることが前提で書かれているが、ここは、本題ではないにしろ、根拠は、あまり説明されていない。
一方、朝鮮半島とのつながりに関する証拠は、九州に圧倒的に多いことが記される。
そのつながりは、多くの分野に渡る。
この辺は、図でも多く紹介されていて、たいへん興味深い。
特に、朝鮮半島側での古墳図、発掘物については、細かく分析されていて、日本で見つかるものとの類似点、相違点が明らかにされる。
とはいえ、発掘物は、まだ断片的であり、並べて網羅的に比較分析することは難しい。
副題の朝鮮海峡の考古学が示す通り、朝鮮海峡をまたいだ考古学研究の魅力を伝えてくれる1冊だった。
昨日訪れた鬼の城などの山城の話は、その後の歴史だ。