横浜在住の人であれば、三渓園の名は知っていると思う。それを作ったのが、原三渓だ。武田道太郎氏(美術評論家)が書いた伝記を、たまたまもらったので読んでみたが、なかなか面白い(有隣新書で、昭和52年の本なので、今は、絶版になっていると思う。もちろん氏の伝記は他にも多数ある)。
氏の本名は、富太郎といい、明治元年の岐阜生まれ。跡見女学校の歴史の先生をしている時に、当時すでに横浜の絹の豪商であった原善三郎の娘が生徒で、相思相愛になり、結婚。原家の養子になったという。その後、絹の貿易商人、絹メーカーとして、巨万の富を得る。今の野毛山公園にあった自宅から、今の三渓園に居を移し、古美術収集に、類まれな能力を発揮した。氏の収集品は、今は、東京国立博物館、大和文華館(関西)に納められている。当時の近代日本画家のパトロン的存在でもあった(岡倉天心の役割を引き継いだといえる)。ちなみに、本書によれば、当時の古美術収集の四巨頭は、原三渓と、井上馨、田中光顕、益田孝。
収集した重要な古建築は、三渓園で、今も見ることができるし、事業の方も、今の横浜銀行(原富太郎は、初代頭取)、ホテルニューグランドなどに引き継がれており、原家と横浜の関係は、限りなく深い。関東大震災の後は、横浜の復興に専念したという。インドの詩人であるタゴールとも親交があった。
近代横浜を作った人だ。
氏の本名は、富太郎といい、明治元年の岐阜生まれ。跡見女学校の歴史の先生をしている時に、当時すでに横浜の絹の豪商であった原善三郎の娘が生徒で、相思相愛になり、結婚。原家の養子になったという。その後、絹の貿易商人、絹メーカーとして、巨万の富を得る。今の野毛山公園にあった自宅から、今の三渓園に居を移し、古美術収集に、類まれな能力を発揮した。氏の収集品は、今は、東京国立博物館、大和文華館(関西)に納められている。当時の近代日本画家のパトロン的存在でもあった(岡倉天心の役割を引き継いだといえる)。ちなみに、本書によれば、当時の古美術収集の四巨頭は、原三渓と、井上馨、田中光顕、益田孝。
収集した重要な古建築は、三渓園で、今も見ることができるし、事業の方も、今の横浜銀行(原富太郎は、初代頭取)、ホテルニューグランドなどに引き継がれており、原家と横浜の関係は、限りなく深い。関東大震災の後は、横浜の復興に専念したという。インドの詩人であるタゴールとも親交があった。
近代横浜を作った人だ。