彦の『漂流記』は、木版刷りで上下二冊、文久3年に刊行された。
岸田吟香と本間清雄を雇って筆記させ、この本を世に出した意図はなんだったのだろうか。
出版によって名利を得ようとしたわけではなかった。今日的にいえば自費出版みたいなもので、採算がとれたとは思われない。
序文にいうところの、先進国たる異国の事情を知らせたいというのは、たぶん建前である。ほんとうは彼は自分を語りたかったのである。漂流者であった自分がなぜ日本に帰って来たのか、そして自分が何者であるのかを知ってほしいという衝動が出版の動機であったはずだ。
序文の最後に、彼はこう記している。
「文久3年秋菊月。播州彦蔵しるす」
「アメリカ彦蔵」ではない。「播州彦蔵」なのである。
アメリカ人として帰還したが、日本人であると名のっているのである。文章にすればそれだけのことだが、声に出せば喉が裂けるほどに叫びたかったに違いない。
「さりながら」と彦は『漂流記』で述べる。「父母の国なれば異国の人別に終らんも本意ならず」と。
「人別」というのは「戸籍」のことだ。
続く文章は切ない。
「希(ねが)はくは日本の読み書きも学び、時を得て日本人別に戻り、亜国と日本の両国に在りて、両国の為に微功をいたし、国恩を報ぜんことを願ふばかりなり」
本音は日本人に戻りたかったのだ。
彦は播州、いまの兵庫県加古郡播磨町古宮の生まれだった。誕生の翌年に父が病死、母は数年後に隣村の浜田に移り、船頭の吉左衛門と再婚した。後年、彦が浜田彦蔵と名のるゆえんである。
養父が船頭だったから、船にあこがれた少年だった。
しかし母は、息子を船乗りなどにしたくはなかった。
「船乗りになれば、きっとみじめになるのは目に見えてるではないの。陸にいれば幸福安穏に暮らせようというのに」
船乗りには絶対させなよという母だった。
12才の時、その母も死んだ。
岸田吟香と本間清雄を雇って筆記させ、この本を世に出した意図はなんだったのだろうか。
出版によって名利を得ようとしたわけではなかった。今日的にいえば自費出版みたいなもので、採算がとれたとは思われない。
序文にいうところの、先進国たる異国の事情を知らせたいというのは、たぶん建前である。ほんとうは彼は自分を語りたかったのである。漂流者であった自分がなぜ日本に帰って来たのか、そして自分が何者であるのかを知ってほしいという衝動が出版の動機であったはずだ。
序文の最後に、彼はこう記している。
「文久3年秋菊月。播州彦蔵しるす」
「アメリカ彦蔵」ではない。「播州彦蔵」なのである。
アメリカ人として帰還したが、日本人であると名のっているのである。文章にすればそれだけのことだが、声に出せば喉が裂けるほどに叫びたかったに違いない。
「さりながら」と彦は『漂流記』で述べる。「父母の国なれば異国の人別に終らんも本意ならず」と。
「人別」というのは「戸籍」のことだ。
続く文章は切ない。
「希(ねが)はくは日本の読み書きも学び、時を得て日本人別に戻り、亜国と日本の両国に在りて、両国の為に微功をいたし、国恩を報ぜんことを願ふばかりなり」
本音は日本人に戻りたかったのだ。
彦は播州、いまの兵庫県加古郡播磨町古宮の生まれだった。誕生の翌年に父が病死、母は数年後に隣村の浜田に移り、船頭の吉左衛門と再婚した。後年、彦が浜田彦蔵と名のるゆえんである。
養父が船頭だったから、船にあこがれた少年だった。
しかし母は、息子を船乗りなどにしたくはなかった。
「船乗りになれば、きっとみじめになるのは目に見えてるではないの。陸にいれば幸福安穏に暮らせようというのに」
船乗りには絶対させなよという母だった。
12才の時、その母も死んだ。