小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎暗殺前後 10

2014-03-16 13:59:23 | 小説
 石坂周造の回顧談によれば、八郎暗殺の当日に、石坂も八郎に会いに行ったことになっている。はからずも石坂は八郎が金子の家に行った目的を述べている。
「之(金子)を同盟させると、五百や六百の有志ができるだらうと云って金子の家へ行くので私は丁度冨坂で別れました」(『石坂翁小伝』)
 まだ同志を集めようとしている八郎なのである。
 同志の横浜焼討ちを中止するために殺されに行ったとする説は、およそ成立しがたいのである。
 八郎の死は、「横浜焼討ち」と関係はないのである。それは暗殺側からしても、直接的な暗殺動機ではない、といえるだろう。
 なぜならば、八郎暗殺後に幕府は直ちに浪士組幹部を罷免させ、浪士組そのものを改編して「純乎たる幕府の御用団体」(大川周明・評)にしてしまうのだが、浪士組幹部を評定所に呼び出しての吟味内容が、横浜焼討ちの共同謀議ではないからである。いわゆる偽浪士とされる神戸、朽葉を勝手に斬首して両国橋に梟首した件であった。幕府は、なぜ、このことにこだわるのか。
 暗殺の翌日、幕府側の高橋泥舟、山岡鉄舟、松岡萬、窪田治部右衛門らは浪士組担当から免職され、石坂周造、村上俊五郎、和田理一郎、松沢良作、藤本昇の6名の幹部は15日に諸藩預かりとして、それぞれの江戸藩邸に禁固処分となっている。
 そして17日には、浪士組は庄内藩の所属となって、「新徴組」と命名されて江戸市中の巡警団体になってしまうのである。大川周明が「純乎たる幕府の御用団体」になったという所以である。
 かって松浦玲氏は、新選組を評して、「新選組が浪士組から引き継いだ『尽忠報国』を掲げていたときは、曲がりなりにも思想集団だった」が「思想集団であることを止めた」(『新選組』岩波新書)と書いたことがある。
 新徴組も、清河八郎という理論的支柱を失って、骨抜きにされ、やはり思想集団ではありえなくなった。
 新選組も新徴組も、いわば浪士組の鬼子であった。清河八郎が新選組あるいは新徴組の生みの親などと称されるとき、鬼子の親といわれて喜ぶひとはいないぜ、と私はいつも思う。
 さて、幕府にとって八郎は暗殺対象となる人物ではあったが、なぜ13日暗殺であったか、そのことに立ち戻らなければならない。


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