小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

安徳天皇生存説

2008-11-19 20:59:04 | 小説
 東西に長い高知県のほぼ中央部、高岡郡越知町に横倉山という山がある。標高744メートル、その山頂に県下で唯一の宮内庁所管地がある。昭和元年、国から安徳天皇御陵参考地として指定された陵があるのだ。
 平家の落人伝説に濃厚につつまれた横倉山には、一度だけ私も登ったことがある。もう25年ぐらい前のことだから細部の記憶は薄れているが、峻険な山頂の陵の、ただならぬ雰囲気だけは今でも鮮やかに思い出すことができる。まさに要害の地に作られた陵なのだ。人目を忍ぶなどというより、人を拒んでいるような厳しさがあった。
 伝承では、安徳天皇は横倉山で23歳の短い生涯を閉じたという。むろん定説での天皇の生涯はもっと短かった。
 安徳天皇は知承2年(1178)生まれで、没年は寿永4年(1185)とされている。よく知られているように源平合戦のおり、壇ノ浦に入水して亡くなれた。数え年で8歳だった。
 その幼帝が実は生存していて、23歳まで土佐におられたというのである。
 一応、といっては不謹慎かもしれないが、安徳天皇の陵として明治22年に治定されているのは山口県下関市阿弥陀町にある阿弥陀寺陵であって、幼帝の遺骸は下関の小門の瀬戸で引き上げられ、阿弥陀寺(現赤間神宮)に手厚く葬られたというのが定説なのである。
 ところが陵墓参考地は高知だけではなく各地にある。いったい、どうしたことか。各地に安徳天皇生存説が流布しているからである。たとえば徳島では16歳まで生存説、鳥取県では2か所終焉地があり、それぞれ10歳、17歳まで生存説、鹿児島では13歳と、硫黄島の64歳まで生存説といったようにだ。
 すべて平家の落人伝説とからみあっているのだが、以上のことはウエブ上で検索をかければ容易に知りうることがらである。
 私がもっとも気になるのは、実は以上のどの生存説でもない。安徳天皇は宇佐大宮司公通の嫡子公仲と入れ替わっていたという説である。壇ノ浦で海に没したのは公仲であって、安徳天皇は公仲として生涯を全うしたというものだ。
 ほかならぬ宇佐社の宮司宇佐氏に伝わる伝承だけに、むげにはできないのである。
 ともあれ安徳天皇生存説は検証の余地がたくさんあって、私には少し時間をかけてみたいと思う課題のひとつである。 


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