小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

清河八郎・素描  6 八郎と鉄舟 その2

2011-11-24 21:22:37 | 小説
 幕府の間者は鉄舟のほかにもうひとりいた。やはり幕臣の松岡昌一郎である。松岡万といったほうがわかりやすいかもしれない。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の片腕を刑場から盗み出し、神棚に供えていたというエピソードの持主だ。
 鉄舟と松岡連名で、幕府当局に出した上書が二通のこされている。その上書の中で、両名は「間者」であったと明確に証言している。
「…私共両人、間者と為り、仮に同腹いたし探索致すべく仰せ聞けられ候につき、命を塵芥に比し相索(たずね)候処…」
 ご覧のとおりである。
 上書の原文は山岡家に伝わっていて、昭和4年に葛生能久が著書『高士山岡鉄舟』で採録している。
 ちなみに、この上書は文久元年5月の八郎の下人殺害事件のあと、さらに弟や妻のお蓮、また同志の幾人かが逮捕されたあとに書かれたものだ。
 全文を引用したいところだが、私は孫引きで読んでいるし、煩雑になるから要点だけを紹介しておこう。ある意味では、鉄舟の苦しい胸のうちが明らかにされている文章といえる。
 鉄舟らは「清河懇意の者」たち、つまりお蓮や弟までが逮捕されたことに同情し、事実不文明な者たちを重罪にしないように助命嘆願し、また自分たちふたりが彼らの容疑の証人とされることは勘弁してほしい、なぜなら士道が立たないから、というのが上書の趣旨である。
 最初から間者であったわけでなく、八郎の決起を止めたくて幕府当局と気脈を通じただけだからという訴えでもあった。
 ただ八郎に外夷館焼き討ちを決行するような動きがあれば、「立処に切殺し」するつもりであったとも書いている。 鉄舟にすれば二重スパイの疑いをかけられても仕方ないから、八郎を斬るつもりだったというのは、あるいは幕府向けの発言で本意ではなかったとも考えられる。
 ともあれ、そういう鉄舟らの切羽詰まった気配に、八郎は無頓着だった。


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