小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

中岡慎太郎を考える  4

2007-02-15 23:28:25 | 小説
 江戸に到着してほどなく、中岡慎太郎は水戸藩を経由して松代に旅立っている。佐久間象山と会うためである。同道者がいた。長州の山形半蔵と久坂玄瑞のふたりだ。中岡慎太郎と長州を結びつけた契機は、この旅にあったといってよい。
 どうやら中岡慎太郎は土佐藩の佐久間象山招聘の下交渉を命じられていたらしい。江戸で早くも頭角をあらわしているのだが、なぜ彼にそのような役割がまわってきたのか。彼は高島流砲術を学んでいた。たぶんそこに目をつけられたのであろう。佐久間象山は高島秋帆の孫弟子であり、接点があるとみなされたのだ。
 ところで長州藩もまた佐久間象山の招聘意向があったようだから、いわばスカウト同志の信州旅行となったわけだ。真田氏十万石の城下町松代にいた佐久間象山は、欧米の事情に通じた一級のインテリだった。訪問者の三人は象山の話に度肝を抜かれたはずだ。たとえば、攘夷に話が及ぶや、佐久間象山は幕府の築いた品川の台場を無用の長物だと嘲笑した。「トルコではかって海上に砲台を築いて英人に笑われておる。およそ、これからの海防の術は、云々」などとやられても、中岡らにトルコそのものの位置がイメージできたかどうかもあやしい。
 佐久間象山を通じて、中岡慎太郎は西洋に出会ったのである。『維新土佐勤王史』によれば、中岡は帰り道に「久坂を顧みて曰く、象山の気魄に圧せられたりと。久坂亦苦笑し曰く、我亦其の感ありと。然れども中岡は、是れより脳疾払ふが如く、神気頓に快活を覚えたりと云ふ」とある。
 さて「脳疾」とはなんぞや。中岡慎太郎は頭痛持ちだったらしいのだ。それが佐久間象山に会ったら治ったという。それほどの衝撃を受けたのである。


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