小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

「邂逅」までのプロセス 14

2006-02-10 17:33:38 | 小説
 むろん田中英光にも、このことは腑に落ちなかった。彼は書いている。
「だいたい彼らがキリシタンだときまり改宗しないとあれば磔その他の死罪にあうはずだし、改宗したとならば黥(いれずみ)の刑をほどこし釈放してさらにスパイにして利用したはずだが、こうしたあいまいさで訴えられ、同じようなあいまいさで彼らがいつまでも入牢させられていたところに、私は彼らをどこまでも当時の政治の犠牲者だとおもう」
 さらに腑に落ちないことがある。土佐では「寛文の改替」というのがあって、古庵らが獄につながれて20年後の寛文3年8月、藩主山内忠豊によって大赦令が出ている。よほどの重罪者でないかぎり、赦免されているのだが、古庵らにこれが適用されていないことになるのだ。
 そして最も大きな謎は古庵の墓碑銘である。「土葬墓」とあるのだ。当時、土佐では罪人は火葬と決まっていた。古庵の墓は高知市の久万字高野谷にあり、「桑名古庵土葬墓」と明記されているという。これはいったいどういうことか。
 実は田中英光もこの謎を短編のプロローグにしているのだが、これは古庵の生涯をあわれんだ人たちが、いわば勝手に作った墓だろうということで済ましている。はたしてそうか。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。