さて、いささか吉良上野介の弁護をすれば、彼のほうから賄賂を要求したことはなかったと思う。いわば相場のない教授料を受け取っていて、その多寡によって勅使饗応役に対する態度を変えていたとしてもだ。
もっとも、はっきり「賄賂をむさぼり」と記したのは『徳川実紀』であった。吉良は「公武の礼節典故を熟知精練」していて「名門大家の族も、みな曲折してかれに阿順し、毎事その教えを受けたり。されば賄賂をむさぼり、その家巨万をかさねしとぞ」ところが内匠頭は「阿諛せず」吉良に「財貨をあたへざりしかば」要するに吉良のいじめにあったというのである。
上野介は、口の悪い嫌味な人物であったことは確かなことのように思われるが、もう一度彼の弁護をすれば、この時代の権力の二重構造、つまり朝幕のひずみを一身で象徴しているような人物だった。悲劇の要因はそこにあったのかもしれない。
勅使饗応役に選ばれる大名は、石高は3万石から10万石までの家格と決まっていた。接待費は大名の負担であるから、石高の少ない大名は最初からお呼びではない。浅野家は5万石。これに対し吉良の禄高は4千200石。禄高でみれば、浅野と吉良では格が違うのである。ところが吉良上野介の官位はとなると従四位上少将だから、ときの老中の従四位下侍従よりもはるかに高いのである。だから公家のような武士のような、つまり獣のような鳥のような蝙蝠のごとき存在が吉良上野介だったのである。彼が大名に高慢な態度でのぞむときは官位を笠に着ているのだが、それがどれだけ大名たちの反感をかっていたかは考えもしなかったであろう。まして侮蔑的な言葉を吐かれたり愚弄されたら、武士がいかなる態度に出るか、理解しないまま齢を重ねてしまったのだ。
もっとも、はっきり「賄賂をむさぼり」と記したのは『徳川実紀』であった。吉良は「公武の礼節典故を熟知精練」していて「名門大家の族も、みな曲折してかれに阿順し、毎事その教えを受けたり。されば賄賂をむさぼり、その家巨万をかさねしとぞ」ところが内匠頭は「阿諛せず」吉良に「財貨をあたへざりしかば」要するに吉良のいじめにあったというのである。
上野介は、口の悪い嫌味な人物であったことは確かなことのように思われるが、もう一度彼の弁護をすれば、この時代の権力の二重構造、つまり朝幕のひずみを一身で象徴しているような人物だった。悲劇の要因はそこにあったのかもしれない。
勅使饗応役に選ばれる大名は、石高は3万石から10万石までの家格と決まっていた。接待費は大名の負担であるから、石高の少ない大名は最初からお呼びではない。浅野家は5万石。これに対し吉良の禄高は4千200石。禄高でみれば、浅野と吉良では格が違うのである。ところが吉良上野介の官位はとなると従四位上少将だから、ときの老中の従四位下侍従よりもはるかに高いのである。だから公家のような武士のような、つまり獣のような鳥のような蝙蝠のごとき存在が吉良上野介だったのである。彼が大名に高慢な態度でのぞむときは官位を笠に着ているのだが、それがどれだけ大名たちの反感をかっていたかは考えもしなかったであろう。まして侮蔑的な言葉を吐かれたり愚弄されたら、武士がいかなる態度に出るか、理解しないまま齢を重ねてしまったのだ。