小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

左甚五郎の謎  3

2009-08-23 21:55:12 | 小説
 飛騨に「たくみ」すなわち木工が多かったのには、わけがある。遠く律令制下の時代に、飛騨国では免税措置の見返りに、里ごとに匠丁10人が徴発された。彼らは木工寮、造宮省、修理職などに配属され、その木工の技術を向上させた。木工のノウハウの蓄積は、飛騨は他国を圧倒していたのであった。
 さて、『国史大辞典』(吉川弘文堂)の「左甚五郎」の項に、こんな記述がある。

〈生没年不詳。建築彫刻の名人として江戸時代に理想化された人物像。延宝3年(1675)黒川道祐の著『遠碧軒記』に、「左の甚五郎と云もの、栄徳が弟子にて細工を上手にす。今の北野の社のすかしほりもの、ならびに豊国の社頭のほりもの竜は、栄徳が下絵にて彫れり。それゆへに見事なり。左の手にて細工を上手にしたるものなり」とあり、(後略)〉

 飛騨の甚五郎がなまって左になったという説とは別に、「左の手で細工」をしたから左甚五郎と呼ばれたという説もあったわけである。それも左利きだった、あるいは仲間の嫉妬によって右手を切り落とされ、左手しか使えなかったなど、とかく人はドラマチックに憶測したのであった。
 上記の引用文献で「栄徳」とあるのは、狩野栄徳のことであるらしい。『国史大辞典』が「生没年不詳」と記すのは、まことに良心的であって、左家の家譜のとおりなら、甚五郎は栄徳の弟子にはなれないのである。栄徳は甚五郎が生まれる前に死んでいる絵師だからだ。
 もしも栄徳の弟子で左甚五郎なる人物がいたとしたら、それは高松で死んだ甚五郎ではないのである。
 ただし寛永11年の高松藩『生駒家士分限録』には大工頭6名の末席に新参衆として「甚五郎」の名が登録されており、5年後の寛永16年の分限録では、こんどは筆頭で登録されている。高松藩に甚五郎という大工頭がいたことは確かなことである。フルネームで「左甚五郎」として登録されていたならば、後世の史家たちにもっとインパクトを与えたに違いない。


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