小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

女囚慕情 久子と松陰 3

2008-03-23 20:34:48 | 小説
 松陰は実は野山獄には二度入獄している。
 安政2年12月15日には、いったんは出獄して生家で蟄居の身となったのだが、安政5年12月26日に再入獄しているのであった。安政5年は松下村塾が最盛期となる年で、高まる松陰の幕府批判と不穏な挙動から、藩は二度目の野山獄送りを決めたのである。
 再獄されて8日後に父宛に出した手紙で、松陰はこう書いている。
「…獄居と家居と大異なきなり、獄中旧同囚四名、又一二の吟詩友あり、安閑中の一楽なり」
 獄中生活が家での生活とたいして変わりないというとおり、囚人たちの交流もかなり自由であったらしい。借牢というかたちの囚人が多かったせいであろう。身内が藩に願い出ての禁錮が借牢であるが、高須久子がまさにそうであった。
 その久子は、手紙の中の「吟詩友」のひとりである。再獄はふたりの再会でもあった。
 安政2年の秋、獄中における「短歌行」では、「酒と茶に徒然しのぶ草の庵」と松陰が詠み、つづけて久子が「谷の流の水の清らか」とつけていた。

 清らかな夏木のかげにやすらへど 人ぞいふらん花に迷ふと

 懸香(かけこう)のかをはらひたき我れもかな とはれてはぢる軒の風蘭
 
 一筋に風の中行く蛍かな ほのかに薫る池の荷(はす)の葉

 上記3首、いずれも松陰の久子を意識した歌である。
 もはや隠しようはない。松陰はほのかにではあるとしても、久子という花に迷っているのである。
 その安政2年12月、松陰がいったん野山獄を出獄するときに、久子の詠んだ句がある。
 
 鴨(?もしかして鴫)立ってあと淋しさの夜明かな

 鴨であれ鴫(しぎ)であれ、松陰の隠喩である。鴫だと思いたい。
 松陰のあざなの「子義」の意味が隠されているからである。おそらく久子は西行の次の歌を知っていた。

 心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮 


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