小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

恋闕の人・真木和泉  10

2008-11-13 13:58:56 | 小説
 元治元年3月の時点で上京進発は4月上旬と決められていたが、結局は6月に延期になった。
 元治元年6月といえば、5日にあの有名な池田屋事件が起きている。池田屋で自藩の有能な志士を幾人も殺された長州としては、上京進発の名分に、池田屋事件の暴行者詮索ということも加えた。長州藩の入京は勅命によって禁じられていたから、名分は多くあるにこしたことはないのである。その上京進発の主たる名分は、攘夷の歎願、政変後謹慎を命じられている長州藩主父子の冤罪の哀訴であった。
 6月16日、5隊からなる軍勢1500人が三田尻を出発した。第1隊の浪士隊は300人、清側義軍と称し、真木和泉と久坂玄瑞が総管となった。隊士の内訳をみると、真木と同じ久留米藩出身者が9名、対馬藩から13名、土佐藩から8名、福岡藩から6名、肥後藩から4名、そして、和歌山藩、津山藩、小松藩、三池藩、宇和島藩、膳所藩、姫路藩などの脱藩浪士で構成されていた。
 5隊の軍勢は6月下旬にはそれぞれ洛外3か所に集結、入京許可を要請するけれども、孝明天皇はあくまでこれを許さない。ついに一橋慶喜に長州征討を決意させる。
 7月18日、征討の議を知った進発開始を決定、和泉は『討会上奏』『幕府へ上書』『在京諸藩へ通告』などを書き、宣戦布告をした。
 禁門の変である。
 真木和泉らは、あっけなく敗北した。禁門の変は、たとえば次のように要約される。
「蛤御門の変ともいうように、戦争は烏丸通りへの出口となる蛤御門周辺で戦闘となった。主として薩摩・会津藩兵と長州藩兵の戦闘である。後で西郷隆盛が薩摩藩兵がいなければ危うかったといっているが、確かに急遽汽船で派遣した精鋭の薩摩藩兵の働きが大きかった。戦争は夜明けから始まって、昼前にはほぼ終わった」(佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』講談社学術文庫)


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