小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

チャンドラーの言葉

2005-07-12 07:01:53 | 小説
「私は作家という仕事に生涯を捧げたわけではない。私が生涯を捧げたのは、人間として生きることだ」
 チャンドラーの言葉だ。この20世紀の探偵小説界の巨匠は、こんな言葉を吐くのである。
 彼の妻の名はシシー。こんな文章もある。
「これまで一度も、自分の文章がシシーの手を暖めるための火以上のものであるなどと考えたことはなかった。そして、彼女は私の文章をあまり気に入ってくれなかった」
 これは、さりげなくだが物凄いことをいっている。自分の書いた原稿用紙をホゴにして火をつければ妻の手を暖めることはできるだろう、つまり自分の書くものにはそれ以上の価値はないだろうといっているのだ。
 おのれの文章が社会的役割をはたしていると自惚れているやから、あるいは自分の文章が読者に受け入れられていると自惚れている物書きどもは、恥じるべきである。あの文章家のチャンドラーにして、かくも謙虚な言葉があるのだ。
 こんなことが言えるから、チャンドラーの文章はほんものなのである。それにしても、チャンドラーにこんなことを言わせたシシーという女性はどんな人だったのだろう。チャンドラーの作中人物の有名なセリフがある。
「タフでなくては生きていけない。優しくなければ生きている価値がない」
 これは「タフなくせに優しくもあるのね」と言った女性に私立探偵のヒーローがこたえるセリフであるが、私はこれがチャンドラーに言ったシシーのセリフのように思われる。
 私もなにがしかの文章を書く。書くという行為に根拠を与えるために、ずいぶんと遠回りして理論武装して書きはじめた。ただ、ひとりでいい、そのひとの心に私の文章の断片がとどくことができるなら、いつ死んでも本望だというほどの思いで書く。

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