しかし因果はやはり巡るのであった。慶應4年4月、流山で新政府軍に拘束された近藤勇は大久保大和となのっていた。たぶん正体は簡単に割れるはずはないと思っていたはずだ。ところが板橋宿に送られ、総督府本営のあった中宿の収容先で、大久保大和なる人物が近藤勇であることを、あっさり見破ったのは油小路事件の生残りであったからだ。
元新選組隊士にて高台寺党御陵衛士残党の加納鷲雄の談話は、近藤勇の最期に言及するたいていの書物に引用されているから、全部は引用しないが、要するに、加納が「近藤勇」と声をかけると、近藤の顔色が変わったのである。「その時の顔色は今に目に附くようで、はなはだ恐怖の姿でありました」と加納は述べている。(『史談会速記録』)
この加納の談話を、私は最初どの本で読んだのか忘れているが、衝撃と不快感はいまも変わらない。そもそも、なぜ変名でなく、堂々と幕臣近藤勇となのらなかったのか。
近藤勇の供述によれば、甲陽鎮撫隊の出陣を大久保一翁より命ぜられたから、大久保大和と改名したという。それはいいとしよう。ところが新政府軍と交戦したことの言い訳で「近田勇平」なる人物が暴発してやむをえなかった、と述べる。誰が聞いたって「近田勇平」は「近藤勇」その人を投影した架空の人物だとわかる。とっさのことで、ほかのもっともらしい偽名が思いつかなかったとしても、哀れというほかはない。
訊問に当たった谷干城が「その色を見るに少しにても申し抜けして、一命を助かりたきの姿、誠に何も音にも似ぬ、鄙劣の男なり」と呆れた。「鄙劣」とは「卑劣」の誤記であろうが、なんとなくイメージに合うからやりきれない。
元新選組隊士にて高台寺党御陵衛士残党の加納鷲雄の談話は、近藤勇の最期に言及するたいていの書物に引用されているから、全部は引用しないが、要するに、加納が「近藤勇」と声をかけると、近藤の顔色が変わったのである。「その時の顔色は今に目に附くようで、はなはだ恐怖の姿でありました」と加納は述べている。(『史談会速記録』)
この加納の談話を、私は最初どの本で読んだのか忘れているが、衝撃と不快感はいまも変わらない。そもそも、なぜ変名でなく、堂々と幕臣近藤勇となのらなかったのか。
近藤勇の供述によれば、甲陽鎮撫隊の出陣を大久保一翁より命ぜられたから、大久保大和と改名したという。それはいいとしよう。ところが新政府軍と交戦したことの言い訳で「近田勇平」なる人物が暴発してやむをえなかった、と述べる。誰が聞いたって「近田勇平」は「近藤勇」その人を投影した架空の人物だとわかる。とっさのことで、ほかのもっともらしい偽名が思いつかなかったとしても、哀れというほかはない。
訊問に当たった谷干城が「その色を見るに少しにても申し抜けして、一命を助かりたきの姿、誠に何も音にも似ぬ、鄙劣の男なり」と呆れた。「鄙劣」とは「卑劣」の誤記であろうが、なんとなくイメージに合うからやりきれない。
来栖と申します。
>そもそも、なぜ変名でなく、堂々と幕臣近藤勇となのらなかったのか。
本名自体が近藤勇から大久保大和に変わっている可能性が考えられます。
このことについては、桐野作人氏の「『大久保大和守』名乗りの真相」という歴史読本2004年3月号に掲載された記事を読んでみると面白いと思います。
>誰が聞いたって「近田勇平」は「近藤勇」その人を投影した架空の人物だとわかる。
谷干城の著述に関しては、谷干城以外の人物が著述したものには出てこない内容が含まれており、谷の著述をそのまま事実であるかのように受け取るのは危険であると思いますが、小説(エッセイ?)なので創作イメージにフィットする史料のみ使用するのだ、ということでしたら、私のこの書き込みは戯言と思って消去して下さい。
「戯言」などとは思いも致しません。新選組を長く研究されている来栖さんですよね。お名前は記憶しております。
最初の回に書きましたように私は新選組嫌いですから、日頃から資料を博捜しているわけでなく、来栖さんのようなご意見をいただけるのは有難い限りです。